=== 随筆・その他 ===

奄 美 キ リ ス ト 教 圧 迫 の 経 緯

中央区・中央支部
(鮫島病院)   鮫島  潤

 私が中学生の頃、草牟田墓地を散策した事がある。空は青く澄みモズの甲高い声がする誠に静かな午後だった。見渡せば北の方には広々とした伊敷の兵営、練兵場が広がり新兵達が激しい訓練を受けているのが見られた。墓地の南側の頂上に達すると足元の竹薮が2〜3坪程切り払われてポツンと朽木の十字架が立って居るのに気付いた。こんな外れた場所に見守る人もなく可哀想だなあとつくづく思うことだった。
 同じ中学生の頃、唐湊墓地にも行ったが墓地の一番奥の荒地に朽木の十字架が数基在った。その時もどうしてこんな所に隠れて寂しく建って居るのだろうかと思った。
 あれから70年ぐらい過ぎた数年前、あの草牟田の十字架のことが気になって再び草牟田墓地に行ってみた。その際、周囲にあのとき私が気付かなかったキリスト墓地が別に幾つか並んでいた。ただ古い墓碑のなかに、「正五位、ヨハネ今村勝次、明治41年8月」と言うのが在った。明治末期の墓だ。よく判読し得ないが碑銘によれば裁判官だったらしい。その頃に正五位等とは士族、平民に拘わらずとても届かない地位だったのだ、そんな人でさえこうして訪れる親族さえなく朽ちて行くのかと感慨無量だった。
 此処で改めて唐湊墓地にも行ってみた。中学時代に見た同じ墓地は見違えるように立派になり花も奇麗に供えてあった。草牟田と較べて大した違いだ。何処の社会にも境遇・貧富の差はあるものだと感じた。その時私は大島でクリスチャンが特に軍から苛められていた話を子供心にうすうす聞いて居たのを思い出した。

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 話は遡るが私が若い頃、谷山の小松原海岸は白砂青松、錦江湾を通して桜島を望み得も言えぬ風雅な光景の場所だった。そこに蔦の絡まった石造りの古風な修道院が建っていた。それは奄美のクリスチャンが軍隊の圧迫を受け止む無く谷山に移って来たのだと言う話を聞いた。併せて草牟田・唐湊のキリスト墓地の事が頭に残って居たのでこれ等の経過を辿って見ようと思い立った。

奄美のクリスチャンの変遷
 奄美と言う所は四○○年前大航海の頃からヨーロッパの船が寄航することが多くその際、宣教師により住民にキリスト教が布教されて、頼る信仰も無い住民にキリスト教は広がっていた。
 時代は移り昭和の初め、五・一五事件、満州事変、国際連盟脱退、軍縮会議など国防上の問題が多くなり、日本の周囲を護る為に奄美の古仁屋に陸軍要塞司令部が築かれた。当時、金融恐慌、経済の不況などもあり民心は非常に不安定だった。その頃日本国では神・仏・キリストのほか天理教、大本教、人の道など信教の自由が認められていたのである。それでも軍部のキリスト教に対する偏見は特に奄美で酷かった。またそのころから右翼の活動が活発になり治安維持法・特高警察が出来て官憲のキリスト信者への圧迫がエスカレートして来た。

軍のクリスチャンに対する態度
 奄美要塞司令官、K大佐、S少佐は陸大出身のエリートではあったが彼らは特に島の住民を蔑視して「俺は奄美のキリストをやっつける為に来たのだ」と公言している。信者だけを集めて「天皇と神はどちらが偉いか」と質問したり、青年團に信者を監視させ「信者は人間の屑だ、国賊だ」と言わせた。特にS少佐は「改宗しない奴は銃殺する」と言ったそうだが、これは大いに住民を恐怖に陥れキリスト教から改宗する者が多かった。そのうち教会の神父達も軍の圧迫に耐え切れず遂に鹿児島に引き上げざるを得ない状況になった。(昭和5年)

奄美の教会での狼藉
 奄美の教会は土地の青年団により3日に渡り鋸や斧で柱を切り倒し、屋上の十字架を倒して、祭壇も井戸に投げ込んだり、墓の十字架もまとめて焼却していた。改宗しない人の家には門に×を付けたりしていたが警察も憲兵もそれを無視していた。奄美の教会で大火災があったが、明らかに放火と見られていた。このような暴行事件も中央の新聞では大きく取り上げたが警察は動かなかったそうだ。この事件を担当した検事は信者の味方ではあったが憲兵にも配慮していた。

福永産婆さんの頑張り
 福永熊千代・彼女は産婆をして甚だ多数の住民のお産を手伝っているし、人望も厚く文部大臣賞を受けている。非常に信念の強い人だった。軍に対して「我々は神の子である、それが天皇の臣民であることとは矛盾しない」と主張して居た。
 或る時憲兵が土足のまま座敷に上がりこんで来たので「何事か!」叱りつけ「クリスチャンも天皇の臣民だ、なぜ差をつけるか」と怒鳴ったと言う、当時憲兵の横暴に抵抗する事は相当な勇気の要ることだった。奄美に建てられた聖堂の十字架は青年団により突き落とされて代わりに日の丸が翻った。熱心なクリスチャンである彼女はこれを見て「この時の胸の痛みは生涯忘れる事はできない」と残念がっていた。熊千代は青年団・在郷軍人達の暴行が酷いので殺される事を心配した友人から避難するように注意されてハブの住む岩穴に3日も隠れていた程である。
 一方で彼女は募金をして海軍に患者輸送用の「赤十字マーク」の付いた飛行機を献納して居る。この募金運動でさえスパイ活動と言われた。それでも彼女の心の中には少しでもミッションスクールに対する圧迫を和らげる意味があったのではないだろうか。余りの圧迫の酷さに中央でも内務省、外務省、軍上級幹部から国際的に問題視されるから中止したほうが良いと奄美に伝えて来た。ローマ法王からも外務省に対して「反省をうながす」電話があったと言う。
 外務省から「南洋群島が日本に委任統治される様になったのはローマ法王の御蔭である。恩を忘れて出過ぎた真似をするな、スパイと言うならその確証を出せ」と叱られた。宗教、スパイ問題だけでなく宣教師に対して例えば、パンやトマトなど食生活、洋服、靴など見慣れぬ風俗習慣の違いもあった。体格の違い、肌色や眼の色の違い言葉の違いもあるし一方では天文、博物、医学にこんなに詳しい人が宣教師としてこんな田舎に来るのは何か目的があるのだ間諜、スパイではないかと考える人も居た。

将校から兵への格下げ
 クリスチャンである泉 豊光は小倉砲兵隊に入隊し甲種幹部候補生に合格した。合格後奄美に帰ったが普通なら将校待遇だから盛大な歓迎会がある筈だったが住民は集まらなかった。泉はS少佐から「天皇は全知全能だ」と言われたのに対し彼は「天皇は国の支配者でありキリストは精神的支配者である」と返事して「不敬罪だ!」と怒鳴られた。そして憲兵により家宅捜索をされ日記帳を没収されて居る。キリストの「人を殺さず」の思想も幹部候補生取り消しの下地になったのだろう。「将校たるべき身で反国家の言動を取った」としてこれも新聞に大きく報道されている。甲種幹部候補生の資格を取り消されて二等兵として再入隊した彼は除隊後、満州に渡って郵便局に勤めた。「満州ではカトリック信者をスパイなどとは言わない」と語って居る。満州の自由の空気の元に早稲田で学んだフランス語で神父と文通したり任務として外人の手紙の検閲をしていた。

大島高女の問題
 奄美はもともと頭脳明晰な人が多く教育に熱心で東京、鹿児島に優秀な人物が多数輩出されている。大正13年頃キリスト教団体フランシスコ会から女子の高等教育の為、女子高女建設の話題が出て来た。村は初め好意的で女学校の為に広大な土地を造成し寄付して居る。学校は県下の学校では初めてのモダンな鉄筋コンクリート建築、白亜の殿堂で目立っていた。しかし大島高女では教育勅語を奉読しない、奉安殿が無い等と噂されていた。学校の施設が立派過ぎ、生徒に特権意識が感じられるようになったので村民は次第に学校に反発するようになってきた。昭和2年裕仁(昭和)天皇が奄美に行幸されることになった為、天皇の警護にかこつけて特に社会主義者、及びキリスト信者への締め付けが酷くなった。
 昭和4年カナダの神父が谷山に来着。景勝の地、小松原の松林に広い土地を購入し教会を建設した。私が若い頃松林の中に見た蔦の絡まった修道院である。奄美を逃れた神父達は同じ宗派のこの修道院に移って来た。
 大島高女も軍及び住民の圧迫に耐え兼ねて昭和9年、鹿児島に移転し名前も聖名高女と変えて大島高女の歴史は閉じられた。然し聖名高女は鹿児島全体を見下ろす紫原の絶景の地に在るので、軍やマスコミは艦隊が入港したり航空隊を見渡せる場所だ、防諜上の見地からスパイの学校だから行くなと宣伝していた。世間の圧迫に耐えかねて聖名高女は純心高女と名を変えた。因みに純心とは山鹿素行の「至誠即純心、純心即至誠」の意である。奄美の大島高女で問題になった御真影や奉安殿も正式に設営されていた。それでも生徒はスパイの学校に行くなと言われたり、通学の生徒に石を投げられたり暴行を受けた。教師はその為、電車停留所まで往復して生徒を護った程である。M校長も住民から暴力を受けた事がある。昭和19年には遂に県が純心高女を買収して鹿児島医専として軍医養成に努めた。その間、止む無く純心学校は同じ系列の谷山小松原の修道院に移ったのである、然し戦後直ちに紫原に戻っている。そして修道院にはラサールが出来た。純心のM校長の頃である。私はその頃を他所ながら見聞し記憶して居る。学校の改名移転等について軍関係に相談が多い。東條、荒木陸相など陸軍上級幹部の名が出てくるのも奇異の感を抱かせるが当時の国情なのだろう。今の純心学園の校舎群を見るとかつての受難の時代を思って感慨無量である。

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 戦争は人を気違いにすると言うが戦時中の軍、特高の横暴ぶりは酷かった、若い人には想像もつかないだろう。それに追従するマスコミも責任がある。
 根本は狭量な人間性のゆえであり、軍部も無知だった。住民は軍の扇動に従っただけだろう。狭い島国では人間関係も複雑だった。遥か洋上の温暖の地、奄美の住民達にはそれなりの特有な文学、芸術が掘り起こされているが古来伝統の詠嘆的、哀調的島歌の調べも島に根付いた物で琉球支配、薩摩支配、砂糖地獄、蘇鉄地獄にキリスト迫害の時代を感慨深く偲ばせて居る。
 鹿児島には福昌寺にもキリシタン墓地がある。十字を刻んだ中型の石棺と周囲に散らばっている石ころだ。握り拳ぐらいの苔蒸した50前後の石の表面に]、十、○等と読み取れないぐらいの小さな記号が刻まれている、それが自分の名前だそうだ。自分の宗教信仰の為にはこんなになるまで身命を賭して主張を貫き通した人々だ。立場は各々違っても虐げられて過した人々だ。福昌寺(写真1)、草牟田のキリシタン墓地の荒廃(写真2)を見、一方奇麗に整備された唐湊墓地(写真3)を見ると三者の違いを考えてつくづく世の変遷、世の無常を感じたのである。その何れも己の信仰を曲げなかった人々の姿である。

写真 1(福昌寺)

写真 3(唐湊墓地)

写真 2(草牟田のキリシタン墓地)



参考文書
聖堂の日の丸:宮下正昭、南方新社
純心学校六十年史
浦上キリシタン事件:家近良樹、吉川弘文館




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