満天に星が輝く九月の夜、私達3人は日奈久の沖を北に向かって進んでいた。ゆっくりと。舳先に西山さん、中央に漕こぎ手の椎葉さん、船尾に私が坐っていた。
私達は結核を患い、大分良くなって来たので、熊本県各地から教職員日奈久研修所に一年間体力作りのため入所させられたのである。一日30分間ゲートボールなどして、あとは自由であった。消灯は一応九時となっていたが、殆んど守る人はなく、又職員から何かと言われることもなかった。若い女性もいたが、皆私より二つ三つ年上で、西山さんが二十位と思われたが、この人は事務所の唯一の女性職員で、元気でピチピチしていた。私が西山さんと口をきいたのは食堂(一階)のオルガンの傍であった。昼食前や夕食前に、同じ曲が何度か弾かれる。(いい曲だな)誰が弾いているんだろうと、静かに階段を降りていった。オルガンが見える処まで行くと、弾手は西山さんと分かった。私は西山さんの傍まで行って「いい曲ですね。何という曲ですか。」と訊ねた。「エリーゼの為に、という曲です。ピアノの練習曲です。」と言われた。こうして西山さんと話をする様になった。
偶然にも、私と椎葉さんとは、二階の六畳の和室同室となった。こんな所の仕事はそう忙しくないのか、西山さんはちょくちょく私達の部屋を覗きに来た。それは私を見るためではなくて椎葉さんと話しをするためだった。私は今まで日本の有名な作家の作品さえ殆ど読んでいないのでこの際読み貯めしようと読書に励んでいた。だから西山さんが来るのが邪魔とは思わなかった。
ここの夕食は午後5時からだった。だからどんなに遅い人でも6時には食べおわった。夕食後から消灯の9時までは自由時間であった。海辺を散歩する人、温泉に行く人、散髪に行く人、各々自分の好みに合わせて動いていた。
そうした或る日の夕方、庭を歩いていると椎葉さんから「ボートにのらない」と声をかけられて一緒に行くことにした。ボート小屋に着くと、そこには西山さんが待っていた。(何だこんな事か)と思ったが、何故私に声を掛けたのか分からなかった。
ボートは気持ちよく風を切って日奈久の海を走った。私は西山さんの顔をみようと頭を何度か振ったが、椎葉さんの大きい背中で中々うまく見えなかった。西には天草の島々がシルエットとして浮び、その下に漁火いさりびが五つ六つきらめいていた。満天の星を眺め、そよ風に吹かれ、波に揺れているとロマンチックな気持になってくる。(他人の彼女と一緒でそんな心になってどうする)と自分を叱ってみても中々気持ちはおさまらない。「そろそろ帰ろうか」の椎葉さんの声で二人はうなづいた。研修所に帰りついたのは9時30分だった。
昭和29年になった。3月の判定会で椎葉さんは退所OKとなり人吉へ帰っていった。私はあれ程仲よく付合っていた西山さんを連れて帰っただろうかと、それが気になった。
或る晩10時すぎに二人で部屋に帰って来た二人は、椎葉さんの布団一つに二人で私の横にねようとして、隣の部屋の人が帰省中で部屋が空いてる事に気付いて、その部屋に布団を移してねたことがあった。私はすぐ寝ついてあとのことは知らない。
私は五月の判定で合格し人吉の我が家へ帰った。八月までは休職期間(2年間)なので本を読んだりボート漕ぎの練習に行ったりした。若し担任の子供達が遊びに来ても、人吉には子供が喜びそうな遊び場がないのでボートにでも乗せてやろうと考えてのことだった。
昭和29年9月から元の学校へ出校することになったが、担任はどのクラスも決まっているので、私は出張の先生の穴を埋めたりして昭和30年3月末まですごした。
4年生の担任になった。このクラスは病前2年生の時受けもった子どもたちだ。早速人吉へ遊びに来たいという。昭和35年、小さいながら家を造っておいてよかったと思った。4月の末だったので桜は散っていたが田圃のレンゲ草が美しい布を拡げたように咲いており、ボート乗りも4人の子だったので軽くこげた。昼食は、母が丹精こめて作ってくれた。子どもにとっても私にとっても楽しい一日だった。
65年昔に帰ってみよう。昭和19年5月、私が旧制人吉中学校2年生の時だ。400人の受験者から250人合格したので誇り高き志をもっていた。或る日の午前中の10分間休みの時、ヅカヅカと二人の上級生が我々の教室へ入って来た。「楠木はいるか!」と一人が叫んだ。勉強家の彼は教卓のそばで「ハイ、ぼくです。」と言って立ち上がった。
「貴様この間の日曜日女学生とボートにのったろう。」「ハイ、のりました。然しあの子は広島から遊びに来たイトコです。」「イトコじゃろうとハトコじゃなかろうと女学生は女学生だろが、テメーラが女とボートのりするのは10年早い。それに今日本はどうなっているか分かってるのか。南方では日本軍は必死で戦っているんだぞ。ボートのりどころか!内地の吾々もできることで戦地を応援せにゃならん時だぞ!」といいおわると、楠木の両頬をこぶしでなぐりつけた。「分かったら椅子に座れ。今回言った事を忘れるな。いいか。」と言いすませ出て行った。
それから一年半足らずで日本は無条件降伏をした。同時に上級生の下級生に対するイジメもなくなった。ボートに誰とのろうとも何も言われなかった。私は高校卒業して小学校代用教員になってからボートのりの練習をした。楠木君は中学五年で卒業して長崎経専に合格し高校の英語の教員になった。
長崎経専を出て高校の英語の教員になった人は多い。私は他の学部に行くことにしていたし学費をかせがねばならぬので遊んでおれなかった。
貯めたお金で土地を少し買い小さい家を建てた。これで台風の心配がなくなった。昭和34年から本格的に勉強を始めた。3年後の昭和37年に鹿大へ合格した。勉強とバイトで忙しく遊んでおれなかった。31歳だったから覚えもおそかった。
最近7月20日が(海の日)と知ったが、意味は分からなかった。終戦までは5月27日が(海軍記念日)で、球磨川でボート競走があった。小2の担任だった海軍上りの井上先生が出れば、先生がいつも優勝された。川を100m往復するのだった。私たち同級生は「ふれふれ、井上」と応援した。
先生のボート競走の一等はうれしかった。
昭和35年、受験勉強をはじめて2年目、小さな家をたてるため、或る人の紹介で建築士のところへ行った。球磨川ぞいの家だった。2回目行った時、奥の家で横向きでまきわりしている男性がいた。おやあの人は椎葉さんじゃないか。西山さんも居るのか聞いてみようかと思ったが西山さんが居なければ、西山さんが可哀想と思って止めた。あれ丈の付合いをした二人だから、多分一緒連れとは思ったが。あの夜のボートのことが思い出された。ボートが二人を結びつけてくれと祈願しながら帰った。
私は大学卒業までは、おそくなっても恋愛も結婚もしないと決めていた。
それはあの夜のボートの上で誓いを立てたことだった。
家は35年11月建った。自分の部屋がもてたので勉強がしやすくなった。37年鹿大に合格した。31歳であった。

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