===　随筆・その他　=== 忘 れ が た い 患 者 さ ん

南区・谷山支部　　�M田　康治

その中年の紳士は、謹厳実直を絵に描いたような方であった。診察室に入る時には「はいります」と云って挨拶をして上半身を15゜に傾けて礼をされる方であった。それもその筈で地方の警察署の署長さんであられた。 　彼は肝臓を長く患い一見して皮膚はどす黒く肝臓は固く肝硬変であった。警察職員は数ヶ月？に一回復職願いを出さなければならない規則があった。 　その患者さんは「少し御相談したいことがありますが」と云って奥様と一緒に診療室に入ってこられた。 　「私は肝硬変で長い間治療してまいりました。生きていても、ほんのわずかの命だろうと思っております。私は現職のままで人生をまっとうしたいのです。復職願いにはそう書いていただけませんでしょうか」「私は満州からの引揚げ者です。苦労して育ちました。警察学校に入学して勤務大事とその一心で勤めてまいりました。警察学校に入ったものは、よくて地方の警察署長で終るのが通常です。病気退職ではなくて、せめて現職のままで終る事をまっとうしたいのです。現状のままで復職できると書いていただけませんでしょうか」「ちょっと待ってください。たとえ病気退職になったとしても第二の人生としてまだまだすることがありますよ」彼は云った。「恥ずかしいことですが勤務第一と考えて何の趣味もありません」「奥様はそれでいいのですか」と奥様に聴いた。奥様は「主人に何と云っても聴き入れてくれません。私も覚悟を決めました」と云われた。結局は現職退職とはならず病気退職された。 　「お手数をかけました。ありがとうございました」と、丁寧に挨拶されて退院された。 　1週間位たった日に感冒にかかったとのことで往診を依頼された。診察すると患者さんはうとうととした状態だった。 　「明日も往診しますよ」と云って帰った。 　次の日は完全に昏睡状態であった。その夜に再び往診したが、もう臨終であった。 　翌日通夜に伺った。彼の柩の上に警察署長の制服と制帽が置かれていた。 　一生を警察官として過ごされた患者さんの生涯を象徴するものであった。

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