緑陰随筆特集

言葉が狩り取られてゆく
エフエム鹿児島社長
           大囿 純也

 報道や放送現場必携のひとつに共同通信編集のハンドブックがある。使用可能な漢字、言い換え、量目・日時の表記など統一したものを示してあり、原稿を書くときは原則これに従う。数字や年号の表記はともかく、悩ましいのが、いわゆる“差別語”だ。使ってはならない言葉や言い換え語を列挙してある。身障者など社会的弱者とされる人々に関する例が多いのだが、いったいどこまでが“差別”なのかとなると客観的な物差しがないだけにむずかしい。一方で、手軽な“言葉狩り”的な雰囲気が広がりつつある近年の風潮もいささか気になる。
 例えば「薩摩狂句」がそうだ。“狂”が精神疾患を連想させるというわけで、これを「郷句」に言いかえているところが現れた。身障者をからかったり、女性蔑視と受け取られかねない句が多かったのは事実だが、性急な言葉狩りは困る。似た現象は近年医療用語などにも広がり、いったいどんな病気なのかよくわからない病名も少なくない。
 こうした、思いつき的な造語は、いずれ淘汰されてゆくだろうからあまり深刻に考える必要はないだろうが、これまで長年読み継がれ、歌い継がれている文学・詩歌の類いまでこうした風潮が及ぶと、そうも言っておれない。アガサ・クリスティー(1890-1976)の代表作『And Then There Were None』(邦訳「そしてだれもいなくなった」)を再読して、そう思う。
 ミステリーのファンでなくてもクリスティーの名を知らない人はまずあるまい。聖書とシェークスピアを除けば、史上最も多くの国で、最も広く読まれた作家。英語版だけでこれまで10億部、英語以外の国で10億部が翻訳されているという。映画化されたものも少なくない。その中で、最高傑作と内外の評価が一致するのがこの作品である。
 私が最初にこれを手にしたのは、もう半世紀近くも昔のことだ。ほこりを払ってめくってみると、巻末に「1961,2,16」と書き込んである。Penguin booksの1960年版で、原題は『Ten Little Niggers』(1939年初版)である。
 物語の舞台は20世紀初頭の海岸からさほど遠くない孤島。島には別荘が1軒あるだけ。そこへ、8人の男女あて別々に招待状が届く。いずれもそれぞれに縁のある特定の人物からであり「1週間のんびり島の暮らしを満喫しませんか」とある。出かけてみると島には使用人の夫婦がいるだけで別荘の主は不在。
 そのうち姿を現すだろうと、一同歓迎の宴に臨むのだが、宴なかば、隣室から突然大音声が響き、それぞれの“罪状”が読み上げられる。使用人夫妻も含め、いずれも殺人者ときめつけ、ここで処刑する、と。みんな思い当たるふしはあるのだが、それらは交通事故や医療ミスなどで結果的に死なせたものでいずれも法的にも無罪が確定している。それを法律に代わって“処刑する”などとは!大音声のもとは隣室に仕掛けられたレコードとわかり、手の込んだ余興、と一同笑いながら乾杯するのだが、途端に1人がばったり倒れて死ぬ。邸内を点検してみると、客間にあった10体の黒人少年の人形の1つがなくなっている。壁に童謡『Ten Little Niggers』の歌詞が掲げてある。「ある日 1人が死んで9人だけになった 次の日また1人死んで8人になった…」と続き「そして、とうとうだれもいなくなった」。
 翌日にはまた1人が死に、人形もひとつ減る。こうして使用人を含め10人全員が死に絶えるのである。全く不可能と思えるこの殺人がなぜ可能なのか、あらためてうーんとうなってしまうほど、実によくできている。ミステリー史上最高傑作のひとつとされるのも無理はない。 
 そんなわけで、もともとのタイトル『Ten Little Niggers』は連続殺人を暗示する黒人人形のことなのだ。島の名前も原作ではNigger Islandだが、これが新版(Harper books, 2007)ではSoldier Islandに、童謡のniggerはすべてlittle boyに替えてある。
 いうまでもなく、niggerは黒人の蔑称としてnegro以上にタブーとされる。クリスティーが、これらの“言葉狩り”に同意していたかどうか不明だが、Nigger Islandという名の、奴隷史にまつわるであろう由来を想像させる、暗い雰囲気が新版では消えてしまった。niggerの人形ひとがただからこそ、この童謡は不気味なのだ。新版では単なる地名にすぎない。

 作品の一部やタイトルを変えてしまう例は身近なところにもいろいろある。渥美 清の寅さんシリーズは今も人気が衰えないが、まだテレビの連続ドラマだったころ、あの主題歌の歌い出しは「俺がいたんじゃお嫁に行けぬわかっているんだ兄ちゃんは…」だったのだが、映画のシリーズになってその1作目、妹のさくらがたちまちお嫁に行ってしまった。星野哲郎、あわてて「どうせ俺らはやくざな兄貴、わかっているんだ妹よ…」と歌詞を変えたそうだ。
 作者自身が手を加えたのならまだいい。後世、つまみ食い的に一部を変えたらしいのがある。唱歌「冬の夜」。燈火ともしびちかく衣きぬ縫ふ母は…で始まるこの歌の2番は、

 囲い炉ろ裏りのはたに縄なふ父は
 過ぎし昔の思い出語る

 居並ぶ子どもはねむさを忘れて 
 耳を傾けこぶしを握る

 もともとは「過ぎしいくさの手柄を語る」である。戦争の手柄話では教育上よろしくない、ということらしいが、これではなぜ子どもたちがこぶしを握るのかわけがわからなくなる。島倉千代子が紅白歌合戦で「東京だよおっかさん」を歌ったとき、2番の「あれが、あれが九段坂…」と靖国神社にさしかかるところはすっ飛ばして1番と3番だけを歌ったことがあるらしい。
 確かに歌詞の内容が時代にそぐわないことはよくある。だからといって時代に合わせて替えてもすぐ古くなる。それが歌詞の宿命というものだ。私が新聞社の大隅支局に勤務していた昭和57年、曽於郡財部町(現在曽於市)が町歌「財部音頭」(昭和31年制定)をリニューアルしたことがある。それまでの、

 育つ牛馬早苗も伸びて 
 汗も涼しい青嵐
 素顔自慢できりりと結ぶ 
 田草取る娘この紅たすき

  が、次のように作り変えられた。
 
 香る茶畑 小唄がもれて
 姉さかぶりの娘が招く
 毛並そろった親牛仔牛
 ほんに畜産まちの富

 いまどき姉さかぶりの娘など、もう観光ポスターでもお目にかかれないのではないか。なにしろ、もう財部という「まち」自体が消滅してしまって今はない。
 数年前、鹿児島県民歌を普及させようではないか、とロータリークラブで呼びかけたことがある。伊藤知事にも直訴したのだが、結局相手にされなかった。山田耕筰の作曲になる荘重な名曲なのだが「歌詞が古すぎる」というのである。無理もない。戦後間もない1948年(昭和23年)の制定だから“戦後”の鹿児島そのままである。

 桜島 はるけき煙
 野にみてり 建設のうた
 萌もゆる芽の はぐくむ自治に
 新しき いのちははずむ
 
 南国の 青空とおく 
 振りかざす 産業の旗
 ドラは鳴る 潮路のはてに
 雲わきて 希望はもゆる
 
 現在、県庁では昼休みにBGMとして流したり、県民表彰式などのセレモニーなどで県警音楽隊が祝典曲として演奏している。なまじ、歌詞にこだわらず、時代を超えた郷土の名曲としての生命を残すほうが見識のひとつと言えるかもしれない。
(以上)




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