1. 始めに
西暦1925年「大正14年」6月25日誕生。長兄長姉次姉の次。
「昭和6年−12年」伊集院尋常高等小学校尋常科入学卒業。
「昭和12−13年」鹿児島県立第2鹿児島中学校1年終了。
「昭和14−16年」熊本陸軍幼年学校。入学卒業、清水台。卒業写真集「御楯」。
「昭和16−19年」陸軍予科及び航空士官学校、埼玉県志木町振武台及び入間修武台。
「昭和19−20年」卒業、見習士官、少尉任官、遠距離戦闘機操縦分科、水戸市常陸教導飛行師団付、次いで第2航空軍101飛行団第26教育飛行隊に配属、更に20年4月末旧満州湖南営飛行場に移動。空中戦々技訓練に励む。同年8月9日、ソ連戦車群が東北満州へ突如大挙不法侵入する。即時、50キロ夕弾爆装体当り攻撃準備。一方祖国は無念の敗戦、幾多の紆余曲折を経て、廃墟と化した日本へやっと辿り着いた。故郷へ直行。「こりゃ本当か夢か孝志じゃいか」真っ先に戦死する筈だった息子へ親父殿の第1声。
2. それから
祖国は見るも無残な敗戦国、哀れ極まる焼け跡、衣食住全てが極貧のどん底。人心も亦荒廃し、赤旗や筵旗の米騒動など続出する不穏物騒な世相。先ずは治安第一と、県警察官募集にイの一番に応募し市来署初勤務が20年10月のこと。平穏無難な新任1年経過。公職追放を前に依願退職。浪々の身に働かざる者食うべからとズシリ重い。死の修業から生の現実へ一大転換。農作業を始めあらゆるアルバイトに心身を注いだ。去る19年7月末、南海の孤島サイパンで玉砕戦死した長兄の遺志を継ぎ医学の道を志したのが22年夏だった。あれから忍の一字を胸深く刻みつつ苦節9年、晴れて医師免許証を手にする。
3. 因果な日捲り
この地に腰を下ろして40有余年、平凡の中にも波乱万丈の連続。医師として最も痛ましく重苦しい出来事、それは最愛の連れ合いが不治の病で早逝した事実。それも学業途上の3児を残しこの世に限りない多くの未練を抱きながら永遠の別れ。辛い。
4. 残 照
寡夫となって30年、遺児養育の責任を連れ合いから一手に引き継いだ筆者、わき目も振らず働き通した。馬車馬の如く。毎晩のように故人の幻が枕頭に立ったのは幾十夜だったろう。多くを語るまい。敢えて全ては夢と考え続ける間に何時しか年月が流れ、今や超後期高齢者のレッテルで老いの実態にドップリ浸らされている身。息絶えた私の肉体が後進医学徒死体解剖実習のお役に立つ筈だから先年の献体手続きは大変よかったと思う。ボケの進まぬ今のうちにエッセー断筆としたい。乞う宥恕。「完」

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