=== 随筆・その他 ===

風      呂

西区・武岡支部
(西橋内科)   西橋 弘成

 私が一人で風呂に行けるようになったのは、何時の時からだったろうか。4歳までは風呂に入った覚えもないので、5歳か6歳の頃だったのであろう。
 その頃私の一家は福岡県久留米市の南隣りの荒木村に住んでいた。村には台湾製糖の工場が有り父はその工場に勤め、私達は社宅に住んで居た。私達が住んでいる社宅の前の広場を30m程真っ直ぐ行くと少し窪地になっていて、そこに社宅用の風呂が作ってあった。私の家からが最も近かった。私は安心して風呂に一人で行けるようになった。
 秋の或る日、夕方になったのでいつものようにタオルをぶら下げて風呂へ行った。もう4〜5人来ていた。石けんを持っていったかどうかは覚えていない。
 村には銭湯は無かったので、社宅以外の家では各自五右衛門風呂を持っていたようだ。
 風呂に入って十分ばかり経った時、女風呂で姉の声らしい声がしたので仕切り戸を開けて見た。すると2m程先に、膝をついてお尻を上げ、胸と顔を床につけた形でいる30歳位の女性がいた。そして、お尻とお尻の間に椿の花でも付けた様なものが見えた。私は怖くなってすぐ戸を閉めて男湯へかえった。
 一寸と横向になっていた顔から、あの女性はTさん宅のお姉さんだと思った。私はそそくさと身体を洗い家へ帰った。帰りつくと母がいた。「母ちゃん、母ちゃん、僕は怖かもんば見たばい。Tさんがたのお姉さんがお尻に椿の花みたいのをさして風呂場に倒れとんなったと。怖かったので早う洗ろうて急いで帰って来とたい。」と話した。母は「あのお姉さん“てんかん”を持っとりなっで時々あんなとが起きなっとよ。」と言った。そんならあの赤い花は何だろうか。私はそれについては触れなかった。
 昭和12年4月、荒木小学校一年に入学した。一組:男子組、二組:男女組、三組:女子組で、私は一組だった。各クラス50人程だった。
 私は古賀君と大の仲良しになった。二学期になると古賀君の家に遊びに行ったり、古賀君が私の家に来たりした。私の社宅の前には手頃な大きさの櫻の木が一本あったので、それに乗って遊んだ。古賀君の家は二階が広かったので、そこで輪投げなどして遊んだ。古賀君のお父さんは、久留米市の会社に務めておられ、荒木の町内会長もしておられた。お母さんとは、いつ行っても会う事がなかったので、お母さんもどこかにお勤めだろうと思った。
 古賀君は、勉強がよく出来る人だった。然し私は何故か競争意識は湧かなかった。これはうぬぼれではなく私の心のどこかに、トータルでは私の方が点数は上だろうという気持があったのであろう。
 古賀君の家は広くて、何処に風呂があるのか玄関の間からは見えなかった。
 この年の7月“日支事変”が勃発ぼっぱつした。「砂糖は贅沢品だから作るのを止めよ。軍需品を作れ。」と言う軍の命令で荒木の工場も近く閉鎖される事になった。父は早速次の働き場所を見つけるため一家揃って母の実家のある人吉町(熊本県)へ引越した。そして一人で筑豊炭田へ出かけた。(人吉町へ引越したのは、13年11月だった)
 人吉は温泉の町である。町全体では20軒近くの大衆温泉があった。私が住む母の実家からは、200mも歩けば“昭和温泉”が在った。昭和の初期に発掘されたので“昭和温泉”と名付けられたらしい。洗い場も浴槽も木材で出来ていた。私は一日おき位に温泉へ行った。早い夕方なので大人は老人が2〜3人来ている位だった。私が行くと、私と同じ位の年頃の少年が3〜4人は来ていた。誰れ言うともなく“手拭かくし”のゲームが始まった。ジャンケンで一番敗けた人が鬼になる。鬼が百数える間に、皆、思い思いの場所へ手拭をかくす。例えば、伏せた洗い桶の中、浴槽の角隅など。
 脱衣場、自分の尻の下、窓から遠く離れた木の根っこ等に置くのは違反であった。5〜6回この遊びをすると1時間位はすぐ経ってしまう。「もうこんな時間か」と言いあって急いで身体を洗った。石けんも持って来ないので、親から見れば「これが入浴か」と思うような洗い方をしていた。
 母の実家には大きな五右衛門風呂があった。大の男が同時に5人は入れる大きさであった。4日毎に伯母が風呂を沸していた。それは伯父(母の兄)のためだった。伯父は身体が弱く、仕事も殆どしていなかった。風呂も温泉に行って何事か起れば他ひ人とに迷惑を掛けるからと言って、温泉には行かなかった。伯父が入浴を済ますと伯母が「伯父さんは済んだから弘ちゃん、入りなさい」と声をかけてくれた。だから実家の風呂が沸いた日は温泉に行かずにすんだ。
 4〜5日して父が筑豊から帰って来た。「筑豊には自分が望むような条件の会社は無かったので、友人の世話で“サハリン”の石炭会社に行く事に決めて来た」と父は言った。そして単身赴任でサハリンへ10月に渡った。
 昭和13年はこうして過ぎた。14年、15年は父が居ないので好き勝手に暮して楽しい思いをした。或る夏の日など、暗くなった8時迄遊んで帰った。腹ぺこで、母へ「御飯たべさせて」と言うと,「あんたが遅いからみんな食べてしまって残ってないよ」と言われたので釜の蓋を開けてみるとちゃんと残してあったので安心した事があった。
 16年の7月父から手紙が来て,「8月に迎えに行くからサハリンへ行く準備をしておくように」とあった。「サハリンへ行くのか、どんな所かな、田舎だろうな。余り行きたくないな」と思った。8月、父が戻って来た。必要最低の物を持って行く事にした。未亡人(母の妹)の叔母もその子供達3人も一緒に行く事になった。
 3夜4日かかって目的地へついた。新しい家が海の近い処へ2軒建っていて、そのうちの一軒が我々の住む家だった。
 風呂は選炭をするコンベヤのある工場と、我々の家がある高地との間のやや低地になった処にあった。平家を、4つの部屋に仕切ってあった。海側の2つが、一軒家に住む人達が使う風呂で、男風呂と女風呂とに分れていた。山側の方は、長屋に住む人達の使う風呂で、やはり男風呂と女風呂とに仕切ってあった。
 私と同学年の従兄と毎日午後4時から5時の間に風呂へ行く事にしていたが、少し時間が早いと、60歳位と思う風呂係の叔父さんが、熱い湯を先に入れてその上に水を入れて湯加減を見ていた。叔父さんが仕事を終えて外へ出て行ってから我々はお湯に浸ったが、熱くて熱くてとうてい入れないので、水道から水を出して、我々が入れる温度に下げていると、時々叔父さんが顔を出して「そんなに埋めるんじゃない。後の人がぬるくて入れないじゃないか」と叱った。女風呂は誰も入ってないので、女風呂は丁度いい温度ではないかと2人で入ってみたが、こちらも熱くて水で埋めないと中へ入れなかった。
 或る日、2人で風呂に入っていると女湯の脱衣場でゴトゴト音がする。「誰か来たごたるばい。一寸と見てみようか」と2人で言って仕切のドアを開けてみると、磯部君とお母さんだった。6年生になってもまだお母さんと風呂に入るのかと思った。彼は私達のクラスで一番背が高い生徒だった。が、温和でやさしい人だった。彼がお母さんから離れられないのかと思ったり、お母さんが一人子の彼を放し切れないのかと思った。
 海側の風呂は一軒家に住む人達だけと決っていたので、男の子は私と従兄と磯部君の3人だけで他は女の子一人だけの家が2軒で、一軒家はみんなで4軒だった。大人の人達は夕食を摂り後かたづけをしてから風呂に行くようだった。
 或る日、いつものように二人で風呂に入っていると長屋側の風呂が、いやに賑やかだ。大きな声でしゃべったり大笑いしたりしている。「何だか面白そうだね。行ってみようか」と二人で行ってみる事にした。父からは「長屋の風呂に行くんじゃないぞ」と何度か言われていたが、何故かが分らず行く事にした。服を着て行ってみると、造りは同じで靴が15足位ある。風呂に入ると見た顔が2〜3あったが、後は知らぬ人ばかりだった。しゃべる相手もいないし、風呂の湯も汚いので、そそくさと上がって自分達の風呂に戻った。
 家に帰るとやたらに身体がかゆい。着物虱にやられたかと2人でシャツを脱いで縫いめをよくみると,「居た、居た」みつけ次第に指で潰していく。縫い目の奥に喰いこんでなかなかさがしつけないのもいる。仕方なく母へ話すと,「下着を全部脱ぎなさい。お湯で焚き殺すから」と言ってくれた。2人共下着を着換えた。下着を換えたがまだ少しかゆい。
 考えてみると上着にもついているはずだ。私達は上着を丹念にしらべた。やはり何匹かが見つかった。これで何とかかゆみが取れた。

 昭和17年4月、6年生になった。前年の12月8日、日本は大東亜戦争に突入していたので全ての物が不足していた。従姉弟と私の3人は上級学校(旧制中学、旧制高等女学校)に進学するので、サハリンでするか、人吉でするかが父母達の話題になっていたが、色々な条件を考えて、人吉に帰って進学する事に決った。8月中旬父の手配で石炭船(7,000t)にのせてもらい九州佐賀港で降ろしてもらう事になった。1週間後無事佐賀港でおろしてもらった。船の上では食事は腹一杯食べられた。
 私は姉が下宿していた伯母の家に下宿し、姉は女学校の寄宿舎へ移ることになった。伯母の家では風呂沸かしは私の仕事になった。廻りは田や畑で、家は少なく温泉も近くにはなかった。井戸水をポンプで五右衛門風呂に汲み入れ、外に廻って炊き口に薪に火をつけて風呂を沸かすのだ。20代の小学校の先生が下宿しておられたが帰りが遅いので、いつも私が一番に入れてもらった。風呂の窓からは畑の緑の野菜や向こうの丘の木々がみえて、目の疲れをとってくれ、心に安らぎを与えてくれて、身体の疲れも取り除いてくれた。
(続く)




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