随筆・その他

リレー随筆

走る絶滅危惧種

中央区・中洲支部
(平野エンゼルクリニック)  楠元 雅寛
2009年 マスターズマグマ駅伝
 最近なにかにとりつかれたように走っている。昔から走るのは嫌いではなかったが長距離は得意なほうではなかった。4月のリレー随筆を担当された自分の大先輩の堂園先生が2003年にNYシティマラソンに参加されたのを聞いた時には何でわざわざマラソンのためにNYに行くのかが不思議なぐらいだった。それなのになぜ自分はマラソン馬鹿になってしまったのだろうか?大学時代はサッカー部に所属しており経験者である程度足が速かったため自分で言うのもなんだが医歯薬リーグでは結構FWとして活躍できていた。卒業後は市立病院の産婦人科へ入局し忙しいなかでも鹿児島市の社会人リーグに登録してサッカーを楽しんでいた。しかしながら、年齢を重ねるにつれて自分の動きが頭の中のイメージと違ってきた。例えば、シュートを打っても所謂ボヨヨンシュートになったり、思いっきりドリブルしてフェイントで急に止まろうと思ったら止まれなくそのまま前に転がり自分で自分のフェイントに引っかかる事もあった。それにチームも若いメンバーが新加入しいつの間にか最年長となりだんだんと出場機会も減っていきサッカーから少し遠のいてしまっていた。走り始めたのは2006年に市立病院を退職して現在の平野エンゼルクリニックに勤務してからである。サッカーの練習も行かなくなり焼酎の飲みすぎと運動不足でお腹の脂肪が目立ち始め全身が何となく重く感じるようになったと同時に頚椎椎間板ヘルニアによる右腕の強烈な痛みで約2ヶ月の牽引リハビリを必要とした。自分でMRIを見て少し怖くなった。何とか牽引治療で痛みが治まり首の筋力トレーニングが開始になった頃に自分でも何か健康な事をしようと思い、その時に真っ先に頭に浮かんだのが健康=ジョギングだった。何事にも先ずは形から入る性格のためランニングシューズ、ランニングウェアー、時計を揃えて準備は万端だった。妻には「サッカーのシャツでも走れるでしょ」とまで言われてしまった。おっしゃる通りだがモチベーションの問題である。
 初めて走ったときのことは今でも覚えている。新品の時計のストップウォッチをスタートさせて目標としては軽く60分ぐらい走る意気込みだったがスタートして間もなく体に異変を感じた。とにかく体が重かった、それに心臓なのか肺なのか大学時代のサーキットトレーニングの時に感じた懐かしい痛み?苦しみが出現してきた。時計を見たらまだ10分も走っていなかったが限界で歩いてしまった。後日車で距離を測ったら2kmもなかった。長距離は得意でなかったにしてもある程度は体力には自信があったので正直言ってかなりショックだった。それからは時間を見つけてはジョギングを続け少しずつ時間と距離をのばしていき何となく走る目標が欲しくなっていた。マラソン大会で自分が知っているのは毎年1月に指宿で開催される菜の花マラソンぐらいだった。一人で参加するのも寂しいので病院の職員を誘ったら以前完走(完歩)した経験のある事務長さんと看護師さんが一緒にエントリーすることになった。人生最初のフルマラソンは2007年1月の事だった。何とか6時間近くかけて完走(完歩)出来たもののとにかくきつく足も心もボロボロの状態でのゴールで完全な練習不足だった。ゴール後は長い間立ち上がる事が出来ずに憔悴しきっていたが不思議な思いがこみ上げてきた。「来年も必ず走ろう」
 この瞬間から自分のマラソン人生がスタートし現在にまで至っている。マラソンにはいろんな魅力がありそれは人それぞれである。自分にとっての魅力は年齢に関係なく頑張れるし練習すれば速くなれるという事だ。最初は自己流で走ったりマラソン完走本を参考にして走っていたが現在はNPO法人のSCC(多世代型スポーツクラブ)の練習に時々参加している。そのクラブで衝撃を受けたのは自分よりも一回り以上も年上の方が自分よりもかなり速いタイムでマラソンを完走している事だった。話を聞いてみると最初から速かったわけではなく何年もかけてそこにたどり着きいまだに毎年自己記録を更新しているらしい。年齢を重ねると瞬発力は衰えるが持久力は自分の頑張り次第である。サッカーには限界があってもマラソンならこれからの頑張り次第で伸びると確信した。もうひとつの魅力は出会いや沿道の応援である。最近は出場大会数も増えてそのたびにさまざまな出会いがあるが先日特に印象深い出会いがあった。それは頴娃町の大野岳マラソンでの事だった。大会会場でスタート前に一人の女性が話しかけてきた。「楠元先生ですよね。覚えてますか」その女性は僕が市立病院勤務時代の7年前に担当させていただいた患者さんで忘れる事のできない方だった。その理由は前置胎盤で帝王切開し術中出血が止まらずに子宮全摘となった症例で医師になって初めての帝王切開後の子宮全摘だったからだ。出生した児は元気だったが低出生体重児で新生児センターへ長期入院となった。その女性の横に一人の小学生がゼッケンを付けて立っていた。その子は何とその時に生まれた子供で小学生になっていた。低出生体重児で出生したにもかかわらず、自分と同じマラソン大会の小学生部門で元気に走っている姿を見て感動した。来年もその大会での再会を約束してお別れした。その時は産婦人科医をやっていてよかったと思い何だか力が沸いてきた。マラソンを始めてから仲間や友人が増え、それも異業種で年齢もさまざまだ。
 平野エンゼルクリニックでは、マラソン部を立ち上げて年間通じてさまざまなマラソン大会や駅伝に参加している。今年の菜の花マラソンも2人の新人さんが見事に完走してくれた。それも2年前の自分のタイムよりもいい成績での完走だった。新人は絶対菜の花マラソン完走とほとんど強引に参加させたので心配だったがゴール後は来年も頑張りますと気持よさそうな笑顔で言ってくれたので誘ってよかったと思った。妻にはいつも注意されるが最近ではいろんな人に一緒に走ろうと誘っている。キシャバに行きつけの飲食店Bというのがあり夫婦でよく出かけたりマラソンの打ち上げで使う店がある。自分が行くたびにマラソンの楽しさ、気持ちよさを話していたらそこのスタッフ、バイト約10人がランニング桜島という大会に一緒に参加することになったのであった。完走して完走証を受け取ったのがすごくうれしかったらしく来年は菜の花マラソンに参加するといってくれた。自分が走るのも楽しいが仲間が完走し満足している姿を見て自分も気持ち良くなれるのもマラソンの魅力なのかもしれない。走り始めて3年目になるがこれまで下関、福岡、阿蘇、種子島などいろいろな地方へ遠征もした。そのたびに応援に駆けつけてくれた妻、自分の母親、妹そして遠征中に病院の当直をしていただいた院長にも感謝しなければならない。今現在の目標は6月に阿蘇で開催される阿蘇カルデラスーパーマラソン100kmに完走することだ。さすがに完走できたら不覚にも涙を流すかもしれない。何歳まで走れるかは分らないが走る産婦人科医(絶滅危惧種)として仕事もマラソンも失速しないように毎年自己ベストを更新するつもりで頑張っていきたい。

次回は、鹿児島市立病院の川畑宜代先生のご執筆です。(編集委員会)




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