=== 随筆・その他 ===

白熊の後を鼠がついて行く

中央区・中央支部
(鮫島病院)    鮫島  潤

 先月私は市医報に「鼠が象を牽く」を書いた。それに関して私が終戦直後1947(昭和22年)に開設されたABCC(原爆傷害調査委員会)に行った事を思い出した。観点を変えて茲に採録してみたい。当時日本国中焼け野が原で全く何もない、食う物にも不自由していた。我々の読みたい書物、学術書等全く無い、然し広島ABCCにはアメリカ軍用機で直接送られていたので最新の情報が手に入るのを知ったのだった。
 広島の町は全く焼け落ちているので郊外の宇品に残っていた家に宿泊して当時市内に1台しかない焼け残りの電車で一本しかない電車道をぶら下って通うものだった。暑い時には町中全く日陰がないので非常に難儀した。比治山(丁度城山ぐらいの山で頂上に進駐軍のかまぼこ兵舎があった)の登り口、丁度照国神社に当たるところからは米軍のジープはさっさと上って行くのだが我々はエッチラ、オッチラ坂を登っていた。
 比治山ABCCでは所長は米国の学者で権限はマッカーサーより上だとの事だった。其処では広島市内の浮浪者をジープやステーションワゴンで集めて骨髄や血液検査などをしてチョコレートなどを与えて帰すのみで原爆被害の調査はしても治療はして呉れなかったので当時から問題にされていた。それを戦敗国の我々にはただ見ているだけでどうする事も出来なかった。
 ある日、米軍の軍医が回診に行かないかと誘うので喜んでついて行った。軍医は堂々たる体格で白い髯を生やし白衣を着ればまるで白熊のようだった。それにまるでビール樽のように真ん丸く太った看護婦がついている。もともと体の小さい私は当時の食糧事情でまるで浮浪児みたいに痩せていたので丁度「白熊の後ろについて行く鼠」みたいな哀れで滑稽な格好だった事を60年経った今でも忘れない。
 ABCC内の研究施設は全く驚くほど完備していて羨ましかった。当時我々はワールブルグなど自分で工夫して互いに相談しながら、まるで金魚の水槽みたいに無骨な四角い物だった。それがここでは円形でスムースに周り、水槽内の温度の差が全く無い。病理切片を造るにも我々は一晩中寝ないで2〜3時間おきに起きては切片を摘んでは次に移す物だった、それがここでは全部オートメイションで行われている。図書室もタイプライター室も分離して静かだし(今では当り前)タイプそのものも私の奴はまるで重機関銃みたいな音を立てていたが米軍の奴は軽機関銃みたいな軽やかな音を立てていた。集まった文献も英文は勿論独文、仏文何でも最新号がそのまま来ていた。しかもかまぼこ兵舎ながら終戦直後で日本中まだ停電だったのに此処は全館冷暖房でまるで夢みたいだった。
 約40年ぐらいして再び比治山に行ってみた。かまぼこ兵舎はもう鉄筋になっているだろうと思ったのにそのままカマボコ型で残って居た。周りに植えてあった桜の苗木が兵舎を覆わんばかりに枝を伸ばしているのを見て非常に懐かしく感じた。最近の話ではかまぼこ兵舎は昭和30年(1955)日本に返還されて法人化され日本放射線影響研究所(放射研)として活躍されていると言う。60年前の懐かしい思い出である。




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