随筆・その他
グ ラ ン ド ゼ ロ で の 想 い 出(2003年)
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西区・伊敷支部
(産婦人科・麻酔科堂園クリニック)
堂園光一郎
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2003年の秋、マラソン友達のJ君との居酒屋トークから花が咲きNYシティマラソンにエントリーすることになった。新春恒例の指宿菜の花マラソンは何回か出場していたが、いきなり海外とは所謂酒のイキオイである。今では3万人規模のマラソン大会は東京シティマラソンがあるが当時はそこまでの国内大会はまだなかった。その大きさに憧れたばかりだけではなく、一度はNYに行きたい、摩天楼を走りたいというミーハー的な発想も混じっていた。それと一番はグランドゼロを見てみたいという気持ちが強かった。NY行きのことの発端は2001年9月11日に世界中を震撼させたアメリカ同時多発テロ事件。あの日2人で練習をして遅くに立ち寄った風呂屋のTVに映し出されたのは、NYツインタワービル崩壊であった。裸のまま番台横で釘付けだった。その記憶もありグランドゼロはしばしば我々酒の話題となり、他人どころか他国の心配を肴にしていた。ある日練習後、酒のイキオイがピークに達すると赤い顔でゼロ、テロ、ゼロ、テロと言いあいながら焼酎を口に次第に盛り上がっていった。ついぞ居酒屋での締め時刻が近づく頃にはぐっと男二人気持ちはNYに向かっていた。
NYシティマラソンに出場経験のある仲間から色々と情報を得た。日本人を含め外国人枠があるため「すぐにマラソンツアーに申し込め」とのアドバイスであった。3万人に5百人程の枠である。年が改まりツアー募集が始まって急いで申し込むと担当の女性からはまだ誰も申し込んできていないとの返事だった。狭き門と思いきや,「ダイジョーブでぇ〜す」ちょっと拍子抜けであった。我々は4泊5日滞在コースを選んだ。大会前日に1日だけゆっくり出来る日を設けてある、そう値段の高くないパックだった。走りがメインなので疲れないように朝食だけのあとはすべてオプションになっていた。ツアー会社より資料が届き日程の詳細が分かり準備を進めていたとき同級生のドクターO君から,「ドクターY君もNYに行く」しかも同じ日取りという。NYは仕事(?)のようだと。早速Y君に連絡をとり見事な偶然を確認しあった。後にこの事がY君自身のマラソンブームにつながることとは思わずに。Y君とは現地で会うこととしてグランドゼロ、ミュージカル、NY観光と遊ぶ約束をした。これで少し楽しみも加わった。
NYまで約12時間、日付変更線を越え到着した。NYの天候は悪くなく気温は例年より暖かだった。翌朝J君と軽く練習に出かけた。もちろんマラソンゴールとなるセントラルパークを目指して走った。平日の朝早かったせいか大会参加者らしきランナーはまだあまり見当たらずいわゆるニューヨーカーらしき地元の人々がジョギングやサイクリングを楽しんでいた。公園は広く樹木も豊富でリスも芝生を走っていた。独身のJ君は走りながら「これが彼女と一緒のジョギングだと最高だけど」とつぶやいた。私もそれには素直に同感した。リスを見ながら走れるとは。デジカメで何枚も撮りまくった。ゴールの確認や公園の雰囲気を楽しんだ後ホテルに戻ってからNYに到着しているはずのY君の連絡を待った。すでに彼はNY在住の友人F君にも連絡を取り合って旧交を温めていた。しばらくしてY君と連絡がつき早速NYツアーに出かけた。半日の市内観光オプショナルツアーは盛沢山だった。夜はブロードウェーのミュージカルで締めた。明日はNY在住のF君の案内でグランドゼロを見に行く計画が決まり、はやる気持ちでベッドに入った。いよいよ鹿児島の風呂屋で見たあの場所が近づいてくる。
NY在住のF君は我々3人を地下鉄で案内してくれた。安価で粋な計らいである。地下鉄に乗れただけでもNYの雰囲気は味わえた。有名な地下鉄の落書きはきれいに消されていた。NYは以前と違い治安がかなり良くなっているとF君が教えてくれた。ジョンレノンの住んでいたダコタハウス、オフシーズンで静まり返ったヤンキースタジアムを見学してから5番街へ、ティファニー、コーチ、ヴィトン、ディオールとY君は妻へのおみやげ探しに必死である。今回彼は仕事のはずだが(?)美人店員とのやりとりには英語に堪能なF君がいて助かった。
いよいよ酒の肴にあがっていた、あのグランドゼロに到着する。そこには何もなくビルとビルのただの空間があるだけだった。特別何もなかった。当然である。跡地は塀で囲まれており、一部に犠牲者の名が記入されたモニュメントが設置されているだけであった。もう2年経っているのだから、敷地の一部がかすかに事件を物語っていた。幾人かの観光客も集まっていた。塀の中はトラック、タンクローリー、リフトなどさながら工事現場の様であった。いや、しっかり工事現場化していたのだった。厳重に囲まれている塀の隙間からは、日本の居酒屋で男二人のヨッパライが感じあっていた哀愁はなぜか漂ってはこなかった。崩壊から再開発に紆余曲折の議論もあったことも思い出した。過去は終わり未来に進んでいる。大都会の選択は決まっているのだろう。12時間かけてきた記念にと、モニュメントの前では堂々とデジカメを撮るのは気恥ずかしく少々控えめにおたがい撮り合った。
翌日、私とJ君はNYの街並みを走りきった。チラシのキャッチフレーズのごとく、スタートからゴールまで応援の人列は途切れることがなかった。幾人かの日本人ランナーも見かけた。日本人への応援も温かだった。ホテルに帰りつくとJ君含めツアー仲間も全員完走していた。夜はツアーの仲間とお互いに異国での健闘をたたえあった。
2009年春、NYの摩天楼のなかを走り抜けた2003年秋から6年も経ち、テロとの戦いを大儀といい続け戦争へ突き進んでいた時代も終わり、ニューリーダーのもとでこの国はまた大きく舵をきろうとしている。グランドゼロ見たさに日本から持っていっただけの哀愁と現地で見た現実との違和感は何だったのだろう。今考えると立ち止まらず変貌することを躊躇しない今のアメリカのパワーを工事現場の塀の隙間から感じ取っていたのかもしれない。
ここ2年故障のためマラソンから遠ざかっている(野口みずき、か?)。また復活しておもいきり走ってみたくなった、そんな想い出にバトンリレーしてくれた太郎へ、サンキュウ。
| 次回は、愛育病院の河野哲志先生のご執筆です。(編集委員会) |

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