=== 随筆・その他 ===

江 戸 末 期 の 温 泉 化 学

中央区・中央支部
(鮫島病院)    鮫島  潤
 日本は世界に冠たる温泉国である。江戸末期から後藤艮山、宇田川榕庵等により温泉の解明が進められていた。これら諸先輩の世界に先駆けた多くの業績について記述してみたい。
 温泉はもともと鹿や鶴など鳥獣が傷を治した言い伝えや弘法大師などの高僧が発見したという伝説が多い。本邦における温泉の記載は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東方遠征の帰りに草津に立ち寄ったこと、また古事記による大国主命の因幡の白兎に始まり平安時代の源氏物語、枕草子から延々と受け継がれていくのである。戦国時代は上杉謙信、武田信玄の「隠し湯」として兵士の戦傷の治療に使われ温泉場の争奪の為に戦いが行われた程である。温泉は初めは王侯貴族、武士のものだったが次第に庶民にも親しまれるようになり温泉神社が祭られるようになった。日本では日本三景と並んで有馬、城崎、白浜を三大温泉と言う。
 西洋でもローマの遠征時代、十字軍時代から温泉はポンペイのサレルノにおける兵士の傷および心身の癒しに大事な役目を持っていた。カナダでは1884年カナダ太平洋鉄道工事中に発見されたアッパー温泉がある。中国では玄宗帝と楊貴妃との悲恋を歌った白楽天の「長恨歌」に出ている華清池が有名である。
 本邦の宇田川榕庵は温泉の水治と温熱効果の他に尚分析を進め、合成にまで及んだ世界中で始めての人物である。以下宇田川榕庵他江戸末期に日本の温泉研究に尽くした儒学者達の一部を掲げて彼等が温泉に如何に関心を持っていたかを述べる。
 江戸末期、鎖国の時代にやっと蘭書が解禁されて欧米に追いつき追い越そうとしていた。伊能忠敬、間宮林蔵の時代である
貝原益軒(寛永7年1630〜正徳4年1714)養生訓の著者、彼は温泉を神の如く敬い慎んでいた。湯文を浴場に張り出し湯治中の禁止事項を列記した。その一つとして房事を禁ずる事を強調しているが、これは余りにストイック過ぎて現代では「折角、温泉に来てまで」と思われる。結局、彼の湯治はスローライフ、スローメディスンに徹していた。その為か彼自身、当時日本人の年齢が50歳平均の時代に84歳まで長生きしている。湯治の態度はあくまで自己管理型で個性を伸ばし自己責任の許容範囲が広かった(所謂長期滞在型)。現在の病院が余りに規制事項が多い事と比べれば湯治の考えかたは大分余裕がある。
後藤艮山(万治2年1659〜享保18年1733)儒学と温泉学の基礎を学んだ科学的温泉療法の創始者で「未病養生」を著した。
 彼は別にあんま(按摩)を普及し、熊胆丸薬を広めている。一回り一週間(病根を抉り出す)二周り一週間(病根を除く)三回り一週間(体力の回復)の約三週間を1クールとする基本を提唱した。多くの弟子を育てている。
香川修徳(天和3年1683〜宝暦5年1755)後藤艮山門下の秀才として経験温泉学を説き、温泉医学書『一本堂薬選』を発表。「医と儒は一本にして二にあらず」温泉は大概灸治と同意なりと考えた。
 静かに気を和らげ子供が水に遊ぶ如き純な気持ちで浴槽に入る。ぬるめの入浴によって血液の新陳代謝が促進される。それ以上は効果が無く体力を消耗するだけであると言っている。中国では温泉を経絡(動脈・静脈)の巡りを良くし新陳代謝を促進して自然治癒力を高めると論じているが、修徳が艮山と共に学んだ経験医学が実は中国以上に科学的であったことは日本人の誇りである。
山脇東洋(安永3年1706〜宝暦12年1762)彼も艮山門下の秀才でベルツ、シーボルト、ヘボンなどと交わり、人体解剖を始めていった。彼は実験で実証しなければ済まない人だった。彼も温泉は針灸治と同様なりと主張している。
柘植龍州(明和7年1770〜文政3年1820)温泉論・漢方医学論を書き、温泉の所以は温度と成分にあると中国でも未だ論ぜられていない点を喝破し温泉分析の糸口とした。彼が推薦した有馬温泉は子宝の湯として有名でその方法は瓢(ひさご)(瓢箪)を輪切りにして外側に昆布を巻き、程よいぬめりと温かさを保たせて、股また座ぐらを開き温泉の湧き出る所に当て湯を膣口に流入させる事を(暖宮)と言う。湯女の唄に「股また座ぐら広げてふくふくと、湯花の当たる心地よさ、かくして子壷へ入れ給う」がある。秀吉が利用し側室に子を設けた事が知られている。女性には温泉を好む人が多く、女性の諸疾患、不妊症には子宝湯が各所にある。
        宇田川榕庵
出典:「宇田川榕庵」『フリー百科事典 ウィキペディア
日本語版』2006年6月27日01:05(日本時間)現
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宇田川榕庵(寛政元年1789〜弘化3年1846)オランダ語を学びショメルの百科辞書を和訳し「遠西医方名物考」を出版し植物、昆虫(リンネの分類)、化学に長じ元素、酸素、窒素、水素、気化、酸化、中和、酸化物、溶解,細胞、澱粉、雄花雌花、宿根、潅木、試薬など彼がオランダ語から造成した和製漢語で今に伝わる用語が多い。シーボルトの指導により温泉分析、合成を研究している。榕庵は非常な秀才で漢書、オランダ、ドイツ、ロシア語に通じシーボルトは「卓越した教養人」と激賞した。その頃数学の天才、関 孝和がいた。世界に冠たる二人の秀才が日本の文化を盛り立てたのである。榕庵はわが国最初の化学書、舎密開宗(セイミかいそう)を著した。オランダ語でセミー,「化学」の意である。ボルタ電池や化学実験も行い日本の化学学会の始まりと言われる。西欧の温泉分析は1871年(明治4年)ドイツのブンゼン以来であり榕庵の研究のほうが大分早い。1828年(文政11年)彼は分析から塩類、硫黄、炭酸ガスなどを調合し人工温泉まで試みていた(ペリー来航の頃である)。但しあまり原料が高くて採算が取れないとの事で長続きしていない。この温泉分析の著書は宇田川家の書庫に眠っていたのを慶応大学藤波剛一教授に発見されるまで70年余り経っていた。この発見がもっと早ければ日本の温泉学は随分進んでいただろうと言われる。これだけの秀才が認められなかったのは当時からまた今でも化学が一般に難解であったからと言われる。(彼は薩摩藩、産科医足立長雋(あだちちょうしゅん)の娘を嫁にしている)
 彼の温泉に対する情熱と知識は鶏群の一鶴と言われる。彼が分析だけでなく温泉流出後その成分が次第に変化する即ち温泉の老化(劣化)現象に気付いている。また彼の知識は老咳、肝臓、腎臓、骨節痛、痔疾等の治効にまで及んだ。その研究の為に彼の足跡は有馬、草津をはじめ薩洲硫黄ヶ島迄の広きに達している。「西洋鉱泉譜」「泰西鉱泉論」及び「温泉雑記」等があるが特に「温泉雑記」はわが国最初の体系的化学書であり江戸時代最大の自然科学書である。
 以上江戸末期、温泉医学に活躍した儒者達を挙げたが、小村英康、宇津木民台、大槻玄沢、杉田玄白、渡辺崋山、高野長英等何れも榕庵と共に温泉湯治を究明した。別に彼等を大いに指導し日本の医学、科学を助けた多くの外人医師がいる。来日した外人学者で温泉開発に尽力した人物を挙げる。
ヘボン(安政6年1859〜明治25年1892(在日))ヘボン式ローマ字で日本の英語の普及に貢献した。温泉をOnsen、hotspringと訳している。彼は日光見物に来た際、地元の人に国際人になれと忠告して今の国際ホテル鬼怒川温泉の開発の基礎になったという。一方草津温泉では地元の人に外国人と排斥されて草津温泉の開発に失敗したベルツの場合と対照的である。
          ベ ル ツ
出典:「エルヴィン・フォン・ベルツ」『フリー百科事典 ウィ
キペディア日本語版』2006年12月18日10:27
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ベルツ(明治9年1876〜明治38年1905(在日))東大教授を26年間務めた、日本医学界の大恩人である。日本の草津温泉が大規模で優れた空気と鄙びた環境がよいと「ベルリン臨床医学」に発表して日本の温泉治療を始めて「万病すくなくとも快方に向かうを常とす」と世界に報告した。それまでは何の設備もない草津温泉に日本の模範となるべき一大温泉場建設の意見書を提出。自らも草津の見晴らしの良い高地で水と空気の綺麗な所に一万二千坪の敷地を買いドイツのカルルスに勝る温泉場を作ろうとしたが外国人には土地は売らないという排他的な地元民に反対されて失意のうちに帰国した。折角芽生えた後藤艮山、宇田川榕庵以来の温泉学の芽はこれで潰れてしまった。現在草津には大展望浴場を備えベルツの名を残した草津温泉ベルツ温泉センターがある。温泉水とグリセリンからベルツ水を作り、あかぎれや化粧薬品として日本中に販売されていた事は私の若い頃の記憶に残っている。
シーボルト(文政6年1823年〜文久2年1862(在日))日本に来て温泉の湯量の豊富なのに驚いた。宇田川榕庵、高野長英と交友があり彼の温泉学を指導した。彼はオランダ商館から医師として嬉野の温泉に来て温泉の分析と現在ブームになっている「足湯」を広めた。箱根宮下に外国人湯治免状を持って行き蚊も蝿もいないサマーリゾートで、ドイツのバーデンバーデンに匹敵すると紹介した。現在の数多くの国際ホテル群の根源になっている。
 以上主だった儒者、外国人医師などを列記して現在の日本の温泉の発展を述べた。温泉湯治が近代の先端医療の代替として根強い信仰を続けていることは江戸末期の医師たちの努力による事に感謝せねばならない。
 以後、昭和の初め温泉療養と環境のことが論ぜられ、昭和10年「日本温泉気候学会」が設立され、世界の温泉学会と提携し、九大が別府に、鹿大が霧島に温泉研究所(後の鹿児島大学病院霧島リハビリテーションセンター)を設置して温泉医学が急速に進んだ。然し、最近温泉の意味が変わり観光開発に力が向けられ、掘削過剰による湯量の減少、温度、水位の低下などの諸点に続き温泉にクラミジア、レジオネラなどの問題が起こり、その為に塩素系薬剤による消毒、循環風呂の出現、それによる温泉成分の変化が目立ち始め、温泉が湯治から遊楽歓楽に偏向しつつあり今後の課題を残している。洋の東西を問わず地方の環境、習慣の違いにより住民の着眼点が違うのが面白い。

参考資料
井上昌知:「歴史から見る温泉保養地の変遷」
 http://www.onsen-forum.jp/enterprise/hoyochigakukoza/
     group-environment/environment02.html
   (2009/03/09アクセス)
白倉卓夫(1997)『草津温泉−草津白根火山・気象・微生物・歴史・医学』草津町温泉研究会. 148p
松田忠徳(2007)『江戸の温泉学』新潮選書. 255p





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