人間魚雷「回天」隊長の殉死
先の大戦が熾烈を極めるようになった頃、私たち医学生は、枯渇し始めていた医療陣の中にあって、相次ぐ空襲のさなか、銃後でも同じ戦いに明け暮れていた。私の左腕にいまも残る傷跡は、あの夏の日のグラマン戦闘機の回想でもある。
そしてやがて、永かった戦いにも終末の時がやってきた。見渡す限り瓦礫が続き、余燼が白くくすぶる廃墟の中で、私は、鹿児島市荒田小学校からの竹馬の友、橋口 寛の帰りを待っていた。
そんな私の所へ届いたのは悲痛な知らせだった。自らの手で命を絶ち、その血で真っ赤に染まった海軍大尉の正装と、血と涙で綴られた手記とに接して、ご両親の前でただ声もなく泣いた。
悲愁の色濃い戦場にあって、ただひたすらに祖国を守り抜こうとして、挽回の一縷の望みを託した彼は、自らを必死必殺の人間魚雷 「回天」の隊長の責においていたのであった。
その彼に、終戦の大詔は、何と悲しく、何と切なく拝されたことか。死に赴いた部下、同僚に涙し、敗戦の責を謝した彼には、もはや生への選択はあり得なかったであろう。何よりも愛した祖国に、そして父母や弟妹に、静かに訣別し、遺書をしたためた彼は、
君が代のただ君が代のさきくませと
祈り嘆きて生きにしものを
と辞世の一首を残し、さらに先に出撃した部下同僚の名を書き並べ、
後れても後れても亦郷達に
誓いしことばわれ忘れめや
と血書を書き、
愛艇の前に、真っ白い軍装を赤く染めて、従容として、自らの手で国に殉じたのであった。ときに昭和20年8月18日午前3時、所は山口県平生の特攻基地。
自らの手で苛烈な死を選んだ君よ、君が信じ愛したこの風土の中に生きて、せめて君の死を耐えたい。心にそう誓いながら私は、君の影を引きずったまま、あれからの長い歳月をとにかく生きてきた。
そして迎えて7回目の「丑年」という。
それでも、私の心の中では、果てることのない戦後が今も尚続いているように思えてならない。
水俣病との出会い
医師として、昭和25年以降、私は地域保健活動の第一線にいた。保健所長として、東シナ海に点在する島々や、過疎高齢化が進む農山漁村での公衆衛生活動から、私が学んだものは、行政に果たして生活者の視点があるのか、地域からの発想に欠けているのでは、そんな反省であった。
やがて、鹿児島の地にも高度経済成長の余波が及び、公害という字句が日常的にみられるようになった昭和45年の春、私は公害・環境行政の基礎づくりという命題の待つ県衛生部の課長へ転ずることになった。
その年の夏、私は一人の保健婦を伴って、水俣市に隣接する出水市の水俣病患者宅を訪ねた。激症の水俣病患者との出会いは、私の一生を変えるほどの衝撃だった。
人の命は限りなく尊い事を態度で示さなければならないと信じて歩いてきた一人の公衆衛生医として、それは背負わなければならない十字架だと、私は自分に言い聞かせていた。
医師として行政の道を歩く者の原点は、言挙げすることのない社会的弱者の立場に我が身を置くことが出来るかどうかにかかっているのではないのか。
保健所行政を通じて、水俣病問題を所管して、私には「負」の意識がまとわりついていた。
問われる終末期医療
健康づくりも地域開発も、主役は地域住民であって、行政や医学は脇役であるべきではないのか。私には負の意識があった。
昭和57年、県衛生部長のポストに就いてからは、機会あるごとに、主役と脇役を論じ、弱者の視点を説いた。肉体にこころに傷を持った人々の痛みを、自分の痛みとして受け止め行動しているのか。私自身の反省でもあった。医療現場の主役・脇役を問い直そう。私は懸命だった。
そんな頃、終末期医療をテーマにした医学会で、こんな発表を聞いた。「現在の医療システムは、治癒改善して社会復帰出来る患者のために整えられており、死にゆく患者のためではない。どれだけ多くの患者達が惨めな思いの中で死んでいったのだろうか。どれだけ多くの家族が傷ついてきたのだろうか。」悲しいまでに胸の痛くなる告白を、私は忘れることはない。
世界一の長寿国を実現させた医療技術の進歩にも、反省すべき課題があるのではないのか。延命一辺倒の医療には、人間性を無視するようなことはないのか。だれでもいずれ迎えなければならない人生の終幕で、死に直面している患者本人が主役を演じきっているのか。
もはや不治であり死期が迫ったときに、無益な延命処置を拒否して、人間らしい尊厳を保ちつつ安らかな自然の死を求めよう。そんな願い、いわゆる「尊厳死」の思想が、ここ数年、急速に広がりを見せており、文書により明確な意思を表明するリビング・ウィル(尊厳死の宣言書)を登録した会員(日本尊厳死協会かごしま)が、県内で既に1,000名に達している。
健やかに生きて、安らかに命の終わりを迎えたい。そう願っている多くの方々の想いがかなえられる社会の訪れを、私は予感している。
終わりに
やがて私にも確実に死は訪れる。身辺整理を終えたら、長い歳月私に主役を演じさせ、自分は脇役に徹してきた妻に、心からの御礼を言いたい。そして子や孫に囲まれ、私をささえ続けてきた多くの友人、知人の善意と友愛に感謝しながら、励ましと、いたわりと、優しさの中で、私の終幕を閉じたい。
そのとき、ようやく、「負の意識」も消えてくれるだろう。

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