=== 新春随筆 ===

剣 豪「 宮 本 武 蔵 」考

鹿児島市歯科医師会 会長

     森原 久樹
 二刀流で物干し竿の使い手、佐々木小次郎を厳流島で打ち破った宮本武蔵を、剣道を志す者で知らない人はいないと思うが、先日兵庫県・岡山県を訪れる機会に恵まれたので出発前に地図を見ていると宮本武蔵駅という小さな駅が目に付いた。何としても行ってみたくてレンタカーでカーナビを頼りに出かけたら、山奥へ、山奥へと林道のような道を岡山県津山市から一時間以上走ったような気がしたが、前触れもなく突然谷間に集落が見えた。そこが武蔵の生まれた岡山県英田郡大原町宮本であり、四方を山に囲まれたそれこそダムの底を思わせる場所としか表現できないところだった。
 武蔵の家は、竹山城主新免家の家老として仕えており十手術を伝えた家系だったとか。武蔵は13歳の時、新当流有馬喜兵衛と戦い、打ち勝って以来、剣の道一筋に諸国を廻った。その間17歳の頃、関ケ原の戦いで負け軍につき帰郷したが、追ってとの大立ち回りが「手のつけられぬ乱暴者」と映りそれこそ命からがら村を逃げ出した。関ケ原で負け軍につき傷心で帰った生まれ故郷も安住の地ではなくむしろ追い討ちをかけられるように村を出た武蔵の心境はいかばかりかと思うと言い知れぬ思いがしてくる。それ以来武蔵は生まれ故郷に足を向けることはなかったそうで、なお武蔵のその後の強さを思い知ることである。
 しかし武蔵はこのことを大成に向けた出発点にしてしまった。何と今の我々には恐ろしいくらいの精神力の持ち主にみえる。
 その後、剣の道一筋に諸国を武者修業し業を磨き、有名な京都での吉岡門下生との戦いを始め数々の名勝負に勝利を収め29歳で下関、厳流島での佐々木小次郎を打ち破るまで一度も負けたことがないという凄さ、その強さのせいか厳流島での小次郎との戦いは武蔵の弟子を使っての卑怯な勝利であるとする説まで出てきたが、武蔵がその後決闘をしていないということとあまりにも強かったことがそのような説をうんだと考えるが、私はそのような説は信じない部類に属するものである。
 その後は熊本の細川藩に召し抱えられ五輪書を書き上げた。また、書・絵・彫刻・工芸等にもすぐれていて数多くの作品を残して62歳の生涯を閉じたとのこと。私も今回の旅で初めて知り武蔵の里を訪ねた意義は大きいものであった。
 後世に残る、偉人・大人の出身地ともなるその町が小さければ小さい程全国的にも知れわたり観光客が押し寄せ賑わいがおとずれる。鹿児島も西郷隆盛を始めたくさんの偉人・大人がいるが大原町の人口は鹿児島の百分の一以下ということを考えると武蔵一人で大いに貢献していることが窺える。
 今の世、年金問題、経済危機、凶悪事件等俗世間の垢を落とすには良い機会であったと自画自讃している。
 また、我が鹿児島でも篤姫ブームで沢山の観光客が見えているが私どもは地元の事を知らなさ過ぎるのではと反省している私である。



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