=== 新春随筆 ===
国 木 田 独 歩 武 蔵 野 の 変 遷
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私は此の頃の東京を見ると息が詰まりそうになる。見渡す限りの不揃いなコンクリートジャングル、此れ見よがしにそそり立つ超高層ビル、その底に蠢(うごめく)数千万の人間の群れ。昭和10年(1935)頃私が初めて訪れた時は緑に溢れる静かな街だった。その後中学校時代に国木田独歩、明治34年(1901)発表の「武蔵野」を副読本として読み「武蔵野の美」を学習したことがある。その想い出が昭和初期の武蔵野には未だ深く残っていた。
思い出すと新宿を出た国鉄(当時は鉄道省)中央線は広い広い草原の平地の上を杉並、三鷹、国分寺、立川、八王子と単線で唯(ただ)一直線に走っていた。乗客もまばらで開放された窓からは武蔵野の平原が遥か遠くまで見えていた。その所々にこんもりとした小高い杜(もり)が散らばっているという、独歩の描く武蔵野の台地を満喫できたものだ。国立(くにたち)からと記憶するが清瀬、所沢、川越に行く私鉄が分かれており、此れも単線で小さなチンチン電車だった。その電車が広い原っぱに何処までも見渡たせたのだ。現在は周囲が余りにも発展しすぎてどの線だったか判らなくなっている。今では国鉄私鉄を問わず殆ど全線三層高架、複複線でそれに高層の駅ビルが聳(そび)えて満員の乗客達は死に物狂いで電車に乗り込むし、プラットホームに吐き出されて四方に散る等、昭和初期の情景からはとても考えられない。
独歩によれば武蔵野の杜(もり)はアラカシ、イチョウ、エノキ、クヌギ、シイ等数えあげれば切りが無い。それらの樹林は松林にない温かみがある。そして関東の季節風から耕地の風蝕を護り、その落葉は堆肥となり地を肥やし、樹木は薪(たきぎ)として人間の生活に多面的に活用されていた。梢(こずえ)を飛び交う小鳥の囀(さえずり)、野には尾花、女郎花(おみなえし)、萱(かや)の繁み、萩・桔梗(ききょう)の群生、それに集(すだ)く虫虫の恋の囁(ささや)き、林と野が入り乱れて自然と生活を纏(まと)める。此れが武蔵野の特長である。武蔵野には北海道の大森林にはない人懐っこい優しさがあった。現在武蔵野の面影は神社、仏閣、公園などごく一部にしか見られない。当時の東京は武蔵野に接する一部の市に過ぎなかった。
国木田独歩、二葉亭四迷などの文学者たちは今の渋谷、新宿、文京、豊島、練馬、武蔵、小金井等の範囲で武蔵野台地を考えていた。要するに今の多摩川から隅田川の間、そしてその間に小金井、玉川、神田水道等の水系を含む範囲を言っている。玉川水道は多摩川より取水し3里にわたる桜並木を抜ける東京の春の名所だ。第二次大戦後太宰 治が愛人と入水自殺を遂げて有名になった。神田上水は井の頭池を水源に淀橋、目白、小石川水道橋経由で神田川に行く。昔はタップリ水量もあり船で農産物の運搬も行われて周囲の農家の人々を充分潤していた。残念ながら現在では住宅の発展が進み一部を除いて川には蓋をされ道路になって僅かに川の遺跡が残るだけになっている。その間に人間の通路として甲州、青梅、世田谷街道が扇状に通っているが始めは誠に長閑(のどか)なものだった。現在は高層ビルが建ち並ぶ広い街道になって車が物凄く渋滞している。
独歩の「郊外」の小編にクヌギ林の傍(かたわ)らで写生する画学生の描写があるが、優雅な良い時代だっただろうなと思う。学生の背後にはクリの実の落ちる音、落ち葉を踏む音までが聞こえる。太陽は富士の背に落ちんとし新月が梢(こずえ)の先に寒い光を見せる。学生はやっと帰り支度を始める。また百姓家の角の鉄道踏み切りで飛び込み自殺が続いてどうも縁起が悪い。引っ越そうと家内が揉める場面があったりする。転居の余裕は充分にあった。
独歩が12歳の頃叔父と鹿狩りをした小品がある。昔太田道灌の鹿狩りと山吹きの花の物語もあるが、その後大正末期まではこのへんでの鹿狩りが普通だったのだ。または主人公が故郷を出て事業に失敗して20年ぐらい経って尾羽打ち枯らして故郷、武蔵野に舞い戻ったにも拘わらず郷土の兄弟縁者達に歓迎される。兄貴の子供と犬に引かれて川端で釣りに興じて絵の様な雰囲気そのまま「川霧」に消えて行ったのは、故郷の愛情が余りにも深かった。「山河月色昔のまま」だったのが却って本人の今までの事業失敗の連続を恥じたのだろう。故郷は暖か過ぎたのか、面目なさに自(おの)ずから死を選んだ事例だ。
または杜(もり)の落ち葉で焚き火をする、真っ直ぐに立ち昇る「青煙一抹」の夜空で男星と女星の誠にロマンチックな邂逅(かいこう)の後、昇天する文章がある。私が子供の頃(80年位昔)私の育った加治屋町でも一面の漆黒の闇、満天の星が美しく、箒で叩けば届きそうに星が眼前近くに瞬いて見えた。天の川が非常に綺麗だった事を思い出す。今の鹿児島に空はない。
独歩の文は武蔵野に対して色彩的・音響的に深い愛情を注ぎ、自然と生活の密着を現して、読む人の心を引き寄せている。一連の表現に独歩の文章の美しさ、語彙(ごい)の豊富な事に目を見張る物がある。読後私は久し振りにすがすがしい気持ちになった。
翻(ひるがえ)って鹿児島の街を眺めてみよう。小規模ながら鹿児島の街は東西に発展して東京のビルジャングルに近くなった。昔の青い長閑(のどか)な田園にギッシリとビルが犇(ひしめ)いて息が詰まるような気がする。私の子供の頃は武岡に登って桜島を眺めると川外(かわそと)
(原良、西田、田上、荒田)の広広とした青い田のなかを、武之橋から鴨池まで市電の可愛いチンチン電車の走るのがずっと見えていた。途中には高等農林(今の鹿大農学部)寮のオランダ式の風車と荒田八幡のこんもりとした杜(もり)が際立(きわだ)っていたのを思い出す。荒田田圃の畦道を歩けば蜻蛉(とんぼ)がピシャピシャ顔に当たるものだった。医学部基礎医学教室も開校当時一時この高等農林の敷地内にあったことがある。私達は実験室の冷たい水で試験管洗いをしながら小川の辺(ほとり)、猫柳(ねこやなぎ)の新芽の先に郡元の田畑を越えて遥かに桜島及び霧島の連山を眺めていた。懐かしい。
昔、武蔵野の一部と見られた東京も、今ではビルジャングルに埋もれて肝心の富士山が見られない。東京に住む人には故郷という心の拠り所が無くなっている。鹿児島では、たとえ少々ビルが建っても未だ雄大な桜島が何処からでも眺められる。この違いは大きい。日本国中、いや世界中にこの如き風景は見られない。志を抱いて鹿児島を出て都を目指した人達が帰郷した時、桜島を見て郷土の大先輩の偉業を偲ぶのは何よりも財産だ。ふとした機会に国木田独歩の「武蔵野」を読み感慨無量で、つい思う事を記してみた。

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