やがて師走、1年暮れるのは夢の間。年経るごとに早くなる。また1つ年を積み重ねる訳で嫌でも80と4歳、丑年の男とか、星回りでは仕方なかんべえ。
おっかあの股座からオギャーと産声、丸裸の誕生は兄姉々に次いで4人目の次男坊。大正14年6月末の事と聞く。
旧制中学(今の甲南高1年丁度14歳)から陸軍の学校へ6年間の武窓生活、そして憧れの戦闘機乗りは特攻隊要員で何回かの不時着も幸いに死に損なった挙句、敗戦、武装解除、丸腰で復員。後、短期間ながら警官1年の経験、医学部8年を経て、田舎開業医約50年。この期間の道程は正に波乱万丈の連続、並大抵の艱難辛苦ではなかった。戦闘機操縦の経験を持ち、警察勤務、結婚17年余で連れ合いの早逝に遭遇、故人の意向を汲み独身を通して3児を抱えながら開業医の仕事を続け捲くってきた。こんな経歴は稀有のケースかも知れぬと独り自認。
以後遺児たちは各地で、夫々の家庭を築き、今や総勢8人の孫が育っている。末期高齢者のカテゴリーで姥捨て山の範疇へ入った筆者、あの世の彼女も随分皺くちゃ婆になっとる事じゃろうにと妄想はお互い様じゃ。万に1つ、再会の機会があるとすれば、年1回の天の川。しかしお互い見分けもつかぬ行きずりの人。呼べど呼べど、振り向きもせず。ちらっと「おまんさあ(アンタさん)、どこん (どこの)爺さんな」呟くのみだろう、何だ夢か。そう、確かに夢だ。初春を控えて、往時茫々、綺麗さっぱりと忘却の彼方へ進もう。
閑話休題「さて皆さん」、
熊本県境、阿久根辺りから南へ薩摩半島突端まで東シナ海に面して海岸線が延びる。この海岸線沿いに、鹿児島本線が走っているが、途中マグロ遠洋漁業の一大基地串木野漁港が現れる白砂青松の吹上砂丘が南へ開けて来る。そこへ市来、東市来と小漁師町が隣接して潮の香りに満ちた砂浜が東シナ海の波を受け入れる。この一帯小高い丘の中程に、遙か遠い南の空を仰ぐように大きな記念碑が聳えている。
先の大戦末期、レイテ島の激戦で玉砕された郷土の大先輩牧野四郎将軍の碑、昭和17年12月・陸軍予科士官学校第6代校長「花も実もあり、血も涙もある武人たれ」と我等将校生徒に情宜の訓を説かれた方でこの町のご出身。更に南下すると大昔、唐の学僧鑑真和尚が唐招提寺を建立、戒律道場とした坊津町が漁港として現存する。
当時、遣唐使の出発地、筑前の博多津、伊勢の安濃津とともに中世の三箇津とか呼ばれて室町時代に大陸や琉球との密貿易の根拠地として栄えた町だったと歴史が教える。
ひそやかにうらぶれた趣でひっそりした佇まいに映ずるのは僻目か。30年程昔の情景をなぞってみた趣。こんな感懐に包まれながら、いつの日か、東シナ海の落日を拝む縁になれば良いがと思う。牛歩はゆっくりでいい、この初春にでも実現させたいと思う。
日の出はよく拝んできたが特に「喜寿記念の富士山8合目山小屋からご来光を祈った」のが圧巻であった。串木野サノサ・朝日を拝む人あれど、夕日を拝む人はなし・にあやかり人生の黄昏に落日の祈りを是非共捧げたい。以上。
「付録」上記碑の紹介。『武士的情宜を涵養し、花も実もあり、血も涙もある武人たるべし』陸軍中将牧野四郎校長遺訓の碑、平成8年1月一虎書
この碑文は陸軍予科士官学校牧野四郎中将が昭和17年12月から19年3月までの在任中将校生徒に対する教育方針の筆頭に挙げられた訓えである。牧野校長は東市来町湯之元出身、資性高潔にして宏量闊達まことに情宜に厚い武人であり優れた教育者としても著名であったが昭和20年7月京都第16師団長としてフィリピン、レイテ島で勇戦し戦死された。時に52歳。今日この訓えを顕す所以のものはこれが単なる武人教育のためのみにとどまらず、ひろく人間教育の真髄に迫る訓えであり「花も実もあり、血も涙もある人間の育成」は、いつの世にも変らぬ永遠の課題であると考えるからである。
ここに牧野校長の薫陶を受けた者達が相図りこの訓えを永く後世に伝えるため遙か終焉の地を望むこの丘を選び遺訓の碑を建立する。
昭和63年4月・牧野四郎陸軍予科士官学校遺訓の碑建立委員会

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