随筆・その他

旅 姿 三 人 男(2)登 城
西区・武岡支部
   (西橋内科) 西橋 弘成

 熊本行きを9月14日と決めた。丁度台風13号が沖縄の近くにいて、東よりに方向を変えつつあったので、12日夜、宮原君から「台風は大丈夫だろうか。」と電話があった。私も台風は気になっていたので、TVニュースを何度も見た。そして、この台風は宮崎県を掠めて太平洋に出ると判断したので「風は大丈夫ばい。小雨が少しくらいは降るだろうけど。予定通りに実行しよう。」と答えた。
 13日の仕事が終わると、私は夕食を済ませ風呂に入って、高速道路で人吉へ向かった。14日の朝の列車で人吉を発つので、「13日夜は家うちに来て泊まらんね。」と宮原君が言ってくれたので言葉に甘えた。
 平成20年9月14日宮原君の家から人吉駅までタクシーで行った。歩けば30分位で着く距離であったから若い時ならゲル節約のため歩いたと思うが、今、私は足を痛めているので歩くのは苦手であった。宇都君は既に駅に来ていて、我々が来るのを駅の入り口で待って居てくれた。
 電車が入って来た。熊本行きの特急電車だ。私が人吉を離れて鹿児島へ来た昭和37年頃は、急行が1日一本有るばかりだった。それが今では特急4本が行き来するので便利なものだ。
 あれこれ話しているうちに熊本駅へ着いた。熊本城前を通る電車もあったが、タクシーを拾って城壁前で降りた。日曜日であるのと、台風13号の影響がないのとで人出は多かった。入り口で入場券を求めた。宇土櫓の右横に新築の天守閣は建っている。宇土櫓が三層であるのに天守閣は五層で、さすがに堂々としていた。熊本城は城造りの名主加藤清正が造ったもので、内堀には坪井川の水を引いて城の廻りを守ったそうだ。天守閣は或る年、原因不明の火で火事になって全焼し、その他の建物は西南征役の戦いで、西郷軍の攻撃で殆ど全焼したのだそうだ。加藤家から細川家が藩主に変わった経いき緯さつは案内書にのっていたが、案内書を失くしてここでは説明できない。
 TVを見ていると、お殿様に会う時は白足袋を履いていて、小刀はつけたりつけなかったりしているようだ。そこで我々は白足袋を用意していった。小刀は竹を短く切って左腰にさした。天守閣の入り口で白足袋を履いて、靴はビニール袋に入れた。かなり急な階段を上っていく。陳列品は下りの時見ようという事にして、唯只ひた管すら上へ上へと進んだ。四層目に殿様のお部屋はあった。壁も天井も金張りで色々な模様が描いてある。殿様が坐る処は一段高くなっている。肘ひじ掛かけもおいてある。四層へは無刀で行かねばならぬと、三層の踊り場で若い職員に言われた。これは竹光だからと中を見せたが、何であれ腰につけた物はここで預かる事になっていると、丸腰にされた。
 殿の前で額が畳につく程に頭をさげると、「面を上げよ。もそっと近う寄れ。」とお声がかかった。我々は、膝をすりながら少し前へ進んだ。「お主等はいずこから参ったのだ。」と聞かれた。「肥後の相良の荘から参りました。」と答えると「そうか、人吉から参ったか。遠い処を御苦労であったのう。よくぞ祝いに来てくれた。ところで相良殿は達者かな。」「はい、お元気の由に御座居ます。」「そうか、それは何よりだ。お会いしたら私がよろしくと申したと伝えてくれ。」と殿様はおっしゃった。我々は殿の部屋を出て五階へ上がった。床は板ばりで、四方に縦格子が入った窓があった。下を見ると入り口の方から城内へやって来る人達が豆つぶの様に見えた。生憎の曇り日で遠方は見えなかったが、阿蘇の連山だけはかすかに見えた。
 降りは廊下に陳列してある物品を眺めながら下った。商店街を一寸と見て行こうという事で、天文館にあたるような、上通り、下通りを歩いた。アーケード街で、長さは天文館の三倍はあると思えた。下通りには鶴屋というデパートがある。そこでトイレをかりて、一階だけをひと廻り見た。昔は、大洋デパートというのもあったが数十年前火事になって何人かの従業員が亡くなられた。デパートとしての再建はなされなかった。現在は、何になっているのか覗いてみれば良かった。
 宿は、宇都君に取ってもらう様にしてあったので、宇都君の案内で宿に向かった。すぐ近くだから歩いて行こうと宇都君が言った。着いてみると「勤労者会館」と書いてある。二階が会議室で、三・四・五階が宿泊所になっていた。部屋に入ると、午後3時頃というのに、三組の布団がすでに敷いてあった。玄関口の受付におじさんが一人留守番しているので聞いてみたら、女の従業員は午前中で帰るらしい。部屋にはクーラーとTVがあるだけで、風呂もトイレも、冷蔵庫もない。風呂もトイレも共同で、我々の部屋から一番遠い処にある。風呂は、家庭用の風呂の二倍位の大きさの物に、すでにお湯が入れてあった。食事もなしで、夕食は外へ食べに出た。
 翌日はゆっくり起きて、外で朝食を取った。全くの素泊りで、一人2,500円であった。宇都君が、なるだけ安い旅行にしようと考えて、宿も選んでくれたのだろう。だが少し味気ない宿であった。昼すぎの特急に乗って約1時間で人吉駅へ着いた。宇都君が携帯電話で家に居る奥さんに連絡した。10分位して奥さんが車で迎えに来られた。宇都君に頼んで、宮原君の家まで我々二人を送ってもらった。方角が反対だったので少し気の毒だったが、同級生のよしみで甘えさせてもらった。
 私は宮原君の家でお茶をいただきながら、今回の旅の話をした。30分程して、宮原君へ別れを告げて鹿児島へ帰った。
 職員に熊本名物「朝鮮飴」を買って帰って翌日渡した。私も1個もらって食べたが、昔は美味しいと思って食べたのに、今回は硬くて甘さも薄く美味とは思わなかった。
(おわり)


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