随筆・その他
私 の テ ニ ス 今 ・ 昔
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中央区・城山支部
(鹿児島医療センター) 宮崎 俊明
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開催前からいろいろと問題をかかえていた真夏の北京五輪も8月24日に無事閉幕し、世界中がほっとしたことでしょう。最も印象に残っているのは水泳の北島の2冠連覇、フェルプスの8冠達成、陸上の短距離で圧倒的な力を見せつけたボルト、2日間で28イニングを投げぬいたソフトボールの上野投手です。また、日本に関しては女性のチームスポーツの健闘が目立ったオリンピックでした。「女性が強くなった」の現れでしょうか。パラリンピックの車イステニスでの国枝の金メダルもすばらしいものでした。
昭和24年生まれの団塊世代の私も鹿児島大学入学時よりテニスを始めて、はや41年となります。昭和42年に出水高校を卒業し、鹿児島市にやってきた私にとっては、西鹿児島駅(現鹿児島中央駅)の正面に見えた桜島の雄大な姿は感動以上のものでした。中学、高校とクラブ活動をしていませんでしたので、大学に入学したら、テニスかギターをしようと思っていました。軟式(ソフト)テニスしか知らなかった私が、テニス部の入会勧誘で、古川先生(下福元町で開業)と、たしか騎射場の喫茶店に一緒に行ったのを覚えています。小倉高校出身の古川先生に「はんどん」(=あなたたち)と言って、話がうまく通じなかった思い出があります。「土曜日」と思われたようです。その時のクラブが硬式テニス部だったのが、私のテニス歴の始まりとなりました。
教育学部敷地内にあったコートは全仏で使用されているきれいな赤茶色のアンツーカーコートでしたが、当時、桜島の降灰がひどくなり、瞬く間に灰まじりの黒味がかった色に変わり、翌年の春にはクレーコートに作り変えられてしまいました。初めて見るボールは毛で覆われ硬くて真っ白で、高価なものでした。しばらくしてから、青やピンクの色のボールもでてきましたが、今では全て黄色のボールが使われています。値段も大分、安くなり、2個で500円程度です。ラケットはウッド(木製)でしたが、バンブー(竹製)もありました。初めてボールを打たせてもらったときはすべてホームランというような状態で、先が思いやられました。新入生部員は40人以上で、初めは球拾いと素振りで、ボールを打てる時間はわずかで、練習の終わりは、紫原の一本桜公園までのランニングでした。当時は、まだシラスの道路で住宅もまばらで“丘”でした。ランニングではいつも先頭集団だったのは意外で、自信もつきましたが、ボールのコントロールはなかなか難しいものでした。
夏の合宿は前県テニス協会理事長の尾辻先輩の勤務地だった樋脇高校であり、市比野温泉が宿舎でした。広いグランドの片隅にあった草ぼうぼうで石ころだらけのテニスコートの整地が合宿の始まりでした。汗が出てもあまり水は飲まない方がいいといわれていた頃で、それまでの経験で、一番きつい日々だったと思うのですが、実感としては残っていません。合宿が終わったら退部しようかと思ったことは覚えていますが、何故、続けられたのかは、全く覚えていません。思い出は良い思い出:悪い思い出:どちらでもないが6:3:1の割合になるそうで、それを物語っているのかもしれません。そのうちに部員も段々と少なくなり、本学のテニス部員として、卒業したのは7人だけでした。
当時はテニスのレッスン書はわずかで、テニスマガジン、ビデオ等も無くテレビ放映も殆ど無い時代でした。初めてテレビで見たのは1975年のウィンブルドン大会で黒人男子初の優勝を飾ったアッシュの日本での室内コートでの試合でしたが、球速が速く、全然参考になりませんでした。部員が多いこともあり、先輩のプレーを見て覚えろ、という時代で、今から考えると、効率の悪いことといったらありません。膝に負荷がかかりすぎるウサギ跳びもやっていました。ボールが打てる時間は極めて限られていましたので、吉野から通学していた教育学部の友人が土曜日に私の3畳間に泊まり、翌朝、8時頃から練習したこともありました。部員の中には選択講義を少なくしたり、さぼったりして、練習していた人もいましたが、全枠、履修した私には思いつかないことで、後で知り、残念に思ったものでした。
練習を続けるうちに何とかボールコントロールができるようになってきましたが、最も印象深いのは1年生の春休みに、突然、ドライブ気味のバックハンドストロークがうまく打てるようになったことです。その時の喜びは今でも鮮明に覚えています。「継続は力なり」です。
3年生からは、現在の黎明館の地にあった医学部のテニスコートで練習に励み、1年先輩の湯田先生(宮崎市で勤務医)に鍛えてもらい、卒業試験の合間にもテニスをやっていました。医師国家試験が難しくなる過渡期でした。西日本医学生、九州山口医学生大会と医学部の1学部だけで大会ができるのはとても誇らしいことですが、団体戦ではいい成績は残せませんでした。西医体では個人戦もあり、途中辞退者が多く、3位のメダルが獲れました。九州学生選手権では、学生で九州選手権を2連覇した二口先生(工学部卒で現在、熊本市で勤務医)の活躍で、福大、西南大についで3位でした。また、彼の長男、次男の活躍もあり1昨年、私達には夢の夢であった西医体での優勝がかなえられました。大学から始めたテニスでしたが、医学部の6年間という長い学生生活のお陰で卒業直後の樋口杯でのシングルスで優勝できたことが、私の学生時代のテニスの集大成となりました。
1年間の研修後、昭和49年に古川先生と共に湯田先生のいた第2外科に入局しました。学生時代に荒田の成人病院のアンツーカーコートでテニスをした後、第2外科初代教授で、当院の初代院長の秋田八年先生の御宅で夕食を何度かご馳走になったのも入局のきっかけの1つでした。翌年はテニス部後輩の下川先生(吉野で開業)、翌々年は梅林先生(西稜団地で開業)が入局し、陣容も整い、3外科野球大会(鹿大2外科、九大1外科、久留米大2外科)に続き、テニス大会も始まり、後に福大1外科が参加し、4外科大会となりました。ほぼ、拮抗した成績でしたが、その後、他の医局に比し、補強が無く、参加人数が不足するようになり、参加できなくなって久しいです。
時間が有れば、まずテニスという私の影響で家内もテニスを始めました。私がテニスを始めた時と比べたら、1対1の球出しで、効率の良い恵まれた練習ですが、他人には冷静に教えられても、家内にはつい大きな声が出てしまいます。家内は中学、高校と、バスケットボール部で、スポーツが好きでしたので、子育て、仕事、親の看病や介護等と、時々、ブランクがありながらも、今では私の練習相手にもなり、プレーについても悪いところを指摘してくれるようになりました。自分でもわかっているところもあり、初めはなかなか素直に聞けませんでした。
平成5年3月に8年間、勤務した県立宮崎病院から国立南九州中央病院(現独立行政法人国立病院機構鹿児島医療センター)に赴任してからは時間的な余裕ができ、大会にも出場するようになりましたが、戦績はなかなかです。練習は主に、学生時代と同じ教育学部のコートを使わせてもらっています。学生時代にあったコンクリート製のベンチが崩れ落ちそうにはなっていましたが、まだ、残っていたのには感激しました。鹿大テニス部OB・OGの先輩、後輩や定年退職された教授、現役の教授、教職員の方々とプレーを楽しんでいます。退職された先生方は65歳以上ですが、ますます上達されています。体重も減少し、動きもよくなり、ショットも多彩で鋭くなってきています。向上心は年令に関係なくいつまでも大切で、成果があがるようです。皆さん、食事には別段気を付けていないとのことで、テニスで汗を流すことがメタボ対策にはもってこいのようです。
ラケットもウッドからアルミ、スチール、グラファイト、カーボン、チタンと次々に新素材が開発されました。さらに、ラケット面の広い「デカラケ」、フレーム巾が厚い「厚ラケ」、フレームの長い「長ラケ」が開発されました。総合的にラケットは軽くて、反発力が強く、スイートスポットが広くなり、初心者で力が無くても割りと早くいい球が打てるようになりました。また、耐久性も向上し、私は7年間、2本の同じラケットを使っています。これからテニスを始めようとされる方は、まず1年間レッスンを受けられた方が上達への近道だと思います。時間にゆとりの無いのが医師の常ですので、親子、夫婦、友人等の何人かで、個人レッスンを受けるのもいいかと思います。
私は平成6年から、浜田先生(谷山で歯科開業)、太原先生(紫原で開業)、牟田先生(南洲整形、勤務医)の4人で錦江高原ホテルで、毎週、火曜日の20時から22時まで、ナイターテニスを楽しんでいます。都合が悪くて誰かが参加できない時には、代わりを大学病院の臨床工学士の淵脇さんや、本学や医学部の学生に頼んでいます。雪のちらつく真冬や、汗びっしょりの真夏も、私達だけは1年中、休まず続けています。また、雨が降っても、コートがとれたら吹上や伊集院の室内コートまで出かけています。みんな、勝負にこだわりながらも、技術や戦法やメンタル面の向上を目指して、一生懸命、プレーしていますので、勝率は悪いながらも私の日常生活で1番、楽しい時間です。2時間みっちりプレーして、1人300円です。以前はペアを変えながらフルに3セットできましたが、最近は3セットできるのは稀になりました。気持ちは若い時そのままなのですが、球速が落ち、動きも鈍くなり、動体視力も落ちて、1ポイントの決まる時間が長くなったからだと思います。熱中しすぎてカウントを忘れることもたまにあります。若い頃は、60歳になってもコートでボールを追いかけていたいと思っていましたが、今は、「年齢に適したテニス」を考えながら、70歳を過ぎてもと思っています。
今、テニスが出来ることを幸せに思い、一緒にプレーして下さるメンバーの方々に感謝です。
| 次回は、鹿児島医療センター 小児科医長の田中裕治先生のご執筆です。(編集委員会) |

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