緑陰随筆特集

旅 順 の 日 露 戦 跡 と 大 連 を 訪 ね て
東区・郡元支部
(老人保健施設ひまわり)    林  敏雄

写真 1 旅順地形模型
写真 2 203高地・登山口
写真 3 爾霊山慰霊塔
写真 4 203高地頂上より旅順港を望む
写真 5 28センチ榴弾砲
写真 6 東鶏冠山要塞
写真 7 東鶏冠山の地下壕
写真 8 水師営の会見所
 平成19年春の連休に、かねて訪れてみたいと思っていた旧満州へ、5月1日福岡から空路、瀋陽に飛ぶことが出来た。瀋陽、長春、ハルピンを見たあと、4日夕刻、空路にて大連に引き返した。
 明治28年(1895)4月、日清戦争勝利後、日本は遼東半島の割譲を受けたが、ロシア・ドイツ・フランスの三国干渉により、涙を呑んでそれを返還せざるを得なかった。そして腹が立つことにロシアは旅順・大連を租借すると共に、長春・旅順間の鉄道敷設権も獲得した。日本は臥薪嘗胆、ひたすら国力を蓄え、明治37年2月、遂にロシアに宣戦布告した。
 旅順は天然の良港で、ロシアはここを旅順艦隊の基地とし、周辺の山々を堅固な要塞で固めた。旅順港の入り口は幅が僅か270mで、大型艦が出入り出来るのは90mに過ぎない。日本海軍はそこに老朽汽船を沈めて封鎖し、旅順艦隊の封じ込め作戦にでた。三次にわたり作戦を実行し、一次に5隻、二次に4隻参加したが要塞からの砲撃と触雷で所定の位置まで進められずに沈没した。広瀬武夫中佐が逃げ遅れた部下の杉野を探しに船に戻ったため戦死し、軍神第一号となった話は子供の頃繰り返し聞かされた。三次は8隻参加したが悪天候のため成功しなかった。旅順港内に閉じこもった旅順艦隊を今度は陸から撃滅するため、乃木希典大将を司令官とする第三軍が編成された。しかし陸には難攻不落の要塞が数ケ所出来ており、攻略は簡単ではなかった。
 旅行2日目の朝早く、大連のホテルから1時間近く南下して旅順戦跡の見学をした。戦跡としては203高地が有名で、標高203mあるのでこの名が付いている。山の上の要塞を攻略するのは至難の業で、乃木軍は繰り返し総攻撃を掛け、多大の犠牲を払ってやっと攻め落とした。現在は観光化されて中腹の駐車場まで車で行き、あとは舗装された道を頂上まで20分程歩くのだが、駕籠かきもいますよ、とガイドさんが言うので安心していた。しかし現地に着いてみると、料金で客とのトラブルが多く、数日前から廃止されたという。仕方なしにトボトボ歩き始めたら、後ろから闇バイクが走って来て、往復二千円であっというまに頂上に連れていってくれた。
 頂上には乃木将軍が戦死者を弔うため、戦場で散乱した砲弾を集めて、爾霊山と銘打った砲弾型の慰霊塔を立てた。見晴らしも良く、少し霞んでいたが旅順港も見えた。占領後、ここに28センチ榴弾砲を持ち込み、旅順艦隊を撃滅出来た。
 東鶏冠山という要塞は初めて聞いたが、観光出来るよう整備されていた。ここも難攻不落で、日本軍は地下トンネルを掘りながら前進し、やっとの思いで攻略出来た。厚い壁で出来たコンクリートの要塞が破壊されたまま残っていた。
 水師営は明治38年1月、乃木大将と旅順総司令官ステッセル中将がロシア軍降伏のあと会見した場所で、子供の頃から「旅順開城約なりて…」の歌で良く知っていた。飾り気のない粗末な農家の部屋で、両将軍はお互いの武勇を讃え合い、ステッセル将軍は自分の乗っていたアラブ系の白馬を乃木将軍に贈った。庭の隅には歌に出てくるナツメの木もあった。建物の中には旅順攻防戦の写真展示があり、中国人女性職員の説明があった。
 旅順のあと乃木第3軍は第1、2、4軍と共に遼陽、奉天を攻め、満州軍総司令官大山 巌大将(鹿児島出身)は、明治38年3月10日奉天入城を果たして事実上の陸戦は終了した。
 一方、海戦では鹿児島出身の東郷平八郎大将率いる連合艦隊が、5月28日、遥々やって来たバルチック艦隊を壊滅させ日露戦争は終結した。9月5日ポーツマス講和条約で関東州の租借権、長春・旅順間の鉄道の譲渡を受け、三国干渉の雪辱を果たした。
 乃木さんは山口の人であるが、旅順戦で多数の将兵を失ったことに重い責任を感じていた。自分の長男、次男も戦死していたが、明治45年、明治天皇が崩御されると、夫人と共に殉死された。東京では学習院院長をされていたが、赤坂の自宅跡は乃木神社となっている。少年時代近くに住んでいたので何回かお参りにいった。閑静な広い敷地に木造の質素な住宅が残されていた。
 大連は三国干渉でロシアが租借してから街造りが始まり、日露戦争後、日本が受け継いで、満州の玄関口として近代都市としての骨格が出来上がった。戦後は中国により高層ビルが次々と建設され、今や人口600万を超える大都会へと変貌した。海の玄関口・大連港に行ってみると、大きな埠頭が幾つも並び、神戸や横浜港に負けないという。旧満鉄本社は現在大連鉄道関連の施設として利用されている。旧満鉄職員の住宅街は一戸建ての瀟洒な住宅街に変わっており、道路には日本人形等を売る露天が並んでいた。一方、ロシア人街も残っていて、木造りの人形・マトリョーシュカ等を売っていた。
 芝が植えられた広い円形の中山広場では、ここを基点に道路が八方に走っており、周辺には満州時代の主要な建物が残っていた。その一つ旧大和ホテルは今も名前を変えて使われていて、中庭の喫茶部でティータイムを取ることができた。昔の最高級ホテルの風格を残しているこの建物の対面には旧横浜正金銀行大連支店があり、現在、中国銀行として使われている。夜はライトアップされて綺麗だった。
 大連郊外の老虎灘に出ると、海沿いに自然公園があり、大勢の市民で賑わっていた。ガイドさんに言わせると、日本人は大連に来ると必ず旅順に行くが、中国人は自然公園の水族館にくるのが普通だという。少し先に行くと美しい北大橋があり、新婚さんは結婚式が済むとここに記念写真を撮りに来るという。当日も3組程来ていた。大連は北九州市と姉妹都市で、北大橋は北九州の北と、大連の大をとって付けられたという。
 大連は初めて訪れたのに何か懐かしさを覚えて不思議だった。一つは満州時代の建物を保存して上手に利用しているというのがあり、この点、韓国が植民地時代の建物を次々に破壊しているのと違っていた。市民は生き生きとして活気があり、グリーンが豊富で街並みが綺麗な大連を、再度訪れてみたい気持ちで帰国した。
 
写真 9 大連港の埠頭
写真 10 大連港・旧埠頭
写真 11 旧横浜正金銀行
写真 12 夜景(旧横浜正金銀行)
写真 13 北 大 橋



このサイトの文章、画像などを許可なく保存、転載する事を禁止します。
(C)Kagoshima City Medical Association 2009