緑陰随筆特集
介 護 福 祉 雑 感
―― 命の重さを実感したとき ――
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はじめに
平常、私たちは死のことを考えることはない。死は確かにそこにあるのだが、それは私とは無関係なものだと考えて安閑としている。明日は当然のごとくやって来るものだと信じて疑わない。いや、信じることさえ忘れている。たまさか死の穴に落ち込まないでいるだけなのに、永遠にこの日が続くものと思っている。日常生活において、私的な時間はそれでもかまわないかもしれないが、介護福祉という仕事をする上で、それは認められないことである。
なぜなら、介護を必要とする利用者の多くは、私たちと同じような時間軸で生活しているのではない。利用者の1日は私たちの1ヶ月、1年、いやそれ以上の重みのある時間軸の中で生活しているのである。私はそれを、特別養護老人ホームという施設で勤務する中で気付かされたのである。
「いつかは逝(ゆ)かにゃならんでな」涙ため
苑友(とも)送る嫗の声かなし(やすひら)
「長病めば宴の御馳も胸の上」笑い言
ひし老女(ひと)送りて十年(やすひら)
1. 特別養護老人ホームの生活
私が特別養護老人ホームに勤めた昭和51年当時、入所者110人に対して、昼間介護職員が9〜14人でお世話しなければならないという、個別ケアを実践するには困難な職員体制だった。また、ADLを主体とした介護技術にしても今日のように介護職員に浸透しておらず、未熟な技術の中でケアが実践されているという現状であった。ましてや、メンタルケアに関する内容が展開できるには未しい状況であった。介護福祉士という国家資格が出来たのはそれから11年後の昭和62年のことである。
当時、施設ケアは日課表で利用者の生活を流していくというのが一般的であった。いわゆる職員の都合に利用者の生活を合わせていたのである。夕食にしても、大学病院はじめほとんどの施設・病院が16:30に配膳されていた時代である。この頃、寮母(今日のケアワーカー)は一人では行動ができず、群れないと行動が取れないメダカ症候群だと揶揄されていたものである。
大学で植物生理を専攻し、一時期は大学院を目指していたこともあったのだが、母親の死・父親の死と大学在学中に両親を見送ることになった私は、在学時代から数人の友人と発行していた同人誌にのめりこむことになる。その一環で、物書きのみで生活できるわけはないので、食の確保のために求めた仮の職業のつもりであったのが、理事長・園長のご配慮で、社会福祉主事の講習に参加させていただき、本格的に福祉について学ぶことになったのである。
それから10年、ケアという臨床の場で介護職員として悪戦苦闘していた私にとって、心無い大都市部の施設長の前述の言葉には腹立たしいものがあり、これ以降、「老人生活研究」という月刊誌等に論文・実践報告・研究ノート等を投稿するようになった。
タイトルは次のようなものである。
「特養の現状と課題(1986・10〜1987・2)」「心優しきプロフェッショナル(1987・4)」「社会死と施設の社会化(1987・7)」「社会福祉と人間哲学(1989・10)」「専門職としての介護(1993)」
これらの原稿が起因となって、今日の大学での教鞭をとることにつながったのである。
山あいを昇り竜の如汽車かげる(やすひら)
スライドの映写のごとく泣き笑い乗せて
列車去りしあと静か(やすひら)
2. 大学における介護福祉教育
介護福祉の本質は援助者の価値観を白紙の状態にして利用者の価値観に寄り添うことにある。提供されるサービスは利用者のためのものだから、それは当然であり、ことさら取り上げて言うほどのものではないと思われるかもしれないが、残念ながら「言うは易く、行うは難し」である。なぜなら、私たちは生きてきた年齢だけ、アイデンティティーを確立してきているのであり、自分の価値観と異なる他者の価値観に白紙の状態で添う事は意識的な係わりに努めなければ出来ないものである。一般的に、私たちは自分の立脚する立場、状況に応じて、自分に都合のよい考え方をするのが常である。
いま、私は電車を待ってホームに立っている。電車が止まり、乗り込もうとするのだが、乗車客が多くてなかなか乗れない。そうこうするうちにドアが閉まり、電車は発車してしまった。残された私は、きっと、こう思うだろう。
「もっと中ほどにつめたら、十分に乗れるだけのスペースはあったのに。運転手も、乗客も、乗り込む人のことを少しは考えてほしいものだ」と。
ところで、今度は電車に乗って目的地へ急いでいるとしよう。電車が止まり、ホームに待っていた人たちが乗り込んでくる。しかし、乗車客が多くて電車はなかなか発車できない。乗客としての私は、きっと、こう思うだろう。
「だらだらと乗り込まないで、もっと早く乗ってほしいものだ。乗客の中には急ぎの用事の者もいるんだから、積み残しても構わないから、早く発車してくれ」と。
聖人君子でない私達は、一般的に利己主義者であり、このような考えを持つことは至極当然のことといえないことはないが、介護福祉を志すものは、次のような考え方ができるように訓練しなければならない。私は大学で学生にそう教えている。つまり、こういうことである。
前者の場合、「次の駅で降りなければならないのに、中に詰め込まれたら降りれなくなるという思いで、ドア付近に立っているのかもしれない。」と考える。
後者の場合、「乗車客の中にも急いでいる人がいるかもしれない。全員乗れるように中に詰めよう」と、考えるのである。
これが思い遣りであり、相手の状況・立場へ自分の思いを遣る事、すなわち推し量ることになるのである。客観的な自己洞察、これが自己覚知につながり、許容量を高めることになり、利用者主体を見据えたケアを提供できる専門職者となることができるようになる。
利用者の望むことを、利用者の望むだけ、利用者の望むように提供できることが介護福祉の本質であるが、口に出されない利用者の望みを知ることは、たとえ思いを遣ろうと努力しても困難が伴う。それを可能にするのが徹底した受容という土壌に芽生えた、利用者主体であり、思い遣りであり、自己決定の尊重であり、個別化なのである。
管理され育ちしことがトラウマに「して
あげる」という傲慢を生む(やすひら)
ねえお前、人生って何だろうなと問わば
愛犬悲しげな眼(やすひら)
3. ワーキングプアという名称に見る昨今の社会情勢と若者気質
マスコミの報道により、介護福祉の現場は3K・5Kのみならず、ワーキングプアの世界であるというマイナスイメージが定着した感がある。しかし、本当にそうであろうか。私には、マイナスイメージを払拭してやまない仕事に対する生きがい・介護福祉の楽しみを知る前に辞めてしまう人が多くいるように感じられて残念でならない。
「あなたのおかげで最後によい人生を送ることができました。有難うございます」
「年寄りのわがままを聞いてくれて有難う」
「この子は食もらんがよー。いけんしたとかい」と必死に人形にご飯を食べさせようとしている老婆が、「それは心配ですね。でもね、あなたがご飯を食べないで病気になったらこの子の面倒は誰が見るのですか」と、母性としての感情に訴えかけたところ、「じゃしとな、いっと見ていてくいやいな」と赤ちゃんを私に託し、涙の食事を摂る。
仕事に対するやりがいを感じる前にリタイアすることのないように、学生にはどんなことがあっても3年間は努めるようにと説き続けてきた私にとって、介護福祉コースの一期生が卒業して3年目、二期生が卒業して2年目になるが、福祉・医療・保健の分野で頑張っている卒業生の活躍を見聞するにつけ、エールを送りたい気分である。
ピアスという面を被りて無関心という鎧に
包まれし若ひ者と(やすひら)
人知れず朽ち果ておるか濡れ落ち葉
(やすひら)
さいごに
介護福祉も社会福祉も、目指すは利用者の自立支援であり生活支援である。しかし、一言でいう生活の支援の何と難しいことか。
一般的に、寝ることに対して苦痛を感じる人は少ないものである。しかし、寝ることの常態化した人にとって、寝る行為は苦痛以外の何ものでもなくなる。適度の心身の疲労があるから、ベッドに倒れこむとき手足を思い切り伸ばしながら、「アー、極楽だ」と、感じるのである。
適度の心身の疲労が人それぞれに異なるのは、それぞれの価値観によって生活が営まれているからに他ならない。援助者も援助者の価値観で生活を送っている。その援助者の価値観をいったん白紙の状態にして利用者に向き合うことの如何に困難を伴うことか。それを可能にするために、私たちは利用者の命の重さに、一日の重さに留意する必要があるのである。そのことに気付いた人は、介護福祉の醍醐味を味わうことができ、介護福祉の世界から離脱することなく、天職だとして、一生を介護福祉に捧げることになる。私は、学生に介護福祉の面白さ・遣り甲斐を伝えようとして日日、奮闘しているところである。
何時よりかわが胃腑に棲む潰瘍の主人然と
してあぐらかきおり(やすひら)
ふるさとは雲海の下確かに地球は宇宙に
浮かぶ星なり(やすひら)

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