緑陰随筆特集

私  と  漢  方
鹿児島大学大学院医歯学総合研究科健康科学専攻
社会・行動医学講座心身内科学分野教授 
                          乾  明夫

 最近、自分の研究の中で、漢方を手掛けることが多くなった。心身医療科には、漢方の“証”の達人がおられるが、私は漢方医学を理解できているわけでは決してない。しかし、人間の縁や出会いとは不思議なもので、六君子湯の基礎研究、臨床研究に深く関わり、鋭意研究を進めているところである。
 六君子湯は人参・甘草・生姜・白朮・茯苓・大棗・陳皮・半夏という8種類の生薬の組合せからなり、図1に示される“証”の患者さんに用いられてきた漢方薬である。その一つの人参は、私が若い頃、食欲促進物質としての位置づけを明らかにしたいと考えた漢方である。その当時は、脳内視床下部の強力な食欲促進物質である神経ペプチドY(NPY)の研究を行っていたが、無謀にも、その受容体結合に及ぼす影響を検討することにしたのである。ブタの海馬膜標品を用いたNPYの結合実験では、人参の粗抽出液やその構成成分であるサポニンを用いたが、多くのペレットが黒く沈澱する有様で、生薬を使う難しさを痛感した。もう少し実験手技に工夫を凝らし、研究手段を吟味し、成功を信じて進むべきであったのであろう。カネボウの共同研究者の皆様方の忍耐やご厚意も、いまだに忘れられない。ブタの脳を頂くために、屠殺場通いをしたことも、若き日の研究の思い出となっている。ブタの頭骸骨は硬く、電気のこぎりで骨粉を上げながら、脳を取り出さなければならなかった。

図1

 六君子湯の研究は、その時の経験が役立っているに違いない。幸運なことに、私たちがここ10年追い求めてきた胃から出る食欲促進ホルモン、グレリンと関連することが明らかとなった。臨床的に認められてきた六君子湯の食欲促進効果を、グレリン放出促進という新たな視点から証明することになったわけである。グレリンの発見は1999年のことであるから、学問の進歩が薬物の作用機序の解明に貢献した例であろう。
 グレリンは胃や腸の空腹期の強収縮運動を促進する。いわゆる空腹で“胃がぐっと鳴る”現象である。ネズミにグレリンを連続投与すると、丸々と太った肥満モデルを作製することができる。グレリンのヒトでの食欲促進効果も確認され、癌や慢性心不全、腎不全、肺疾患、感染症、老化などに伴う悪液質病態への臨床応用が考慮されている。六君子湯は、グレリン放出薬としての意義を持つこととなった(図2)。

図2 グレリン化合物の臨床応用*
 グレリンの作用は視床下部・下垂体で発現され、成長ホルモン刺激ホルモン(GHRH)とともに、
GH分泌を促進する。視床下部の食欲促進系神経ペプチドY(NPY)/アグーチ関連ペプチド(AgRP)
は、グレリンの食欲や消化管運動促進作用を介在する。グレリンの作用の増強/減弱を行うこと
による臨床応用は、グレリン発見前から成長ホルモン分泌促進因子(GHS)が作製されていたこと
もあり、アゴニストの臨床応用が先行している。最近、六君子湯にグレリン分泌促進作用が見い
だされた。*日本医事新報4393:43-46:2008

 漢方の成分は多彩であり、その作用点も単一であるとは考え難い。その“複雑系”こそが、ホルモンや薬物に代表される西欧医学的な“要素還元主義的”考えと相違し、広く世界に受け入れられなかった理由であろう。漢方に関わる臨床医や研究者が、国際的な展開を余り求めなかったことも、その一因であろうか。
 六君子湯に関しても、どの生薬のどの成分が、どのようにしてグレリン分泌を促進するのか、今後の研究が必要である。しかし、構成成分の一つフラビノイドにその作用が認められ、抗癌剤シスプラチンや抗うつ薬SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害剤)による食欲不振を、セロトニン系を阻害することにより改善させることが、動物実験を用いて証明されつつある。漢方の“複雑系”のほんの一端を、垣間見ているに過ぎないのかもしれないが、グレリンの病態生理学的意義から見た六君子湯の適応が、“証”とほぼ重なることは重要であろう。
 漢方の“複雑系”の研究は、新たな研究領域を開拓し、基盤的な調節機構を明らかにしうる可能性を秘めているのではないかと考えている。心身医学も“複雑系”である。ゲノム計画が終了し、ヒトの遺伝子が3万余りと判明した現在、消化管ホルモンを例にあげると、未知のものは60前後と予測することが可能となった。まだ60もの消化管ホルモンが存在すると思われるであろうか。あるいは、もう60しか残っていないのかと驚かれるであろうか。これら未知の消化管ホルモンが、次々と同定され、瞬く間に世に出てくることであろう。遺伝子チップや蛋白チップを用いた網羅的解析技術、高度な脳画像解析装置の開発、一塩基多型、繰り返し配列をはじめとした個体の遺伝的基盤研究とそれを可能にする遺伝子解析技術の進歩、多能性幹細胞やES細胞を用いた再生医療、臓器、組織を用いた移植医療など、めまぐるしく医学は進歩している。漢方や心身医学の“複雑系”の解析が、近未来に大きく進展し、我が国から世界に発信してゆくことを望みたい。




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