私はもう85年も甲突川の辺に住んで鹿児島から離れない。河畔の静かな森が良い散歩道だ。所々に石碑が立っているが今回その石碑について想い出を辿って見たいと思う。
木村探元の碑
国道3号線平田橋の袂に誠に小さな黒御影石の石碑がある。木村探元は全国に有名な日本画家で狩野派の重鎮という。薩摩では島津藩に召し抱えられその画風の見事さに「見事探元」と言われていた。波の平の銘刀の鍔にも彼の作風が使われている。お墓は伊敷幸加木神社の入り口にあるが意外に小さくて気を付けないと見過ごしてしまう。鹿児島の教育委員会も気を配って貰いたい。
ライオンズクラブ銅像と大久保利通銅像
甲突川左岸で高見橋の角、ライオンズ広場は適当な広さで市民の憩いの場所として親しまれている。かねては軽い運動場になり春と秋には木市が開かれて市民に潤いを与えている。そこに昭和40年11月にライオンズクラブから銅像が立てられて池や噴水と共に市民の心を癒していた。ところが昭和54年9月にその前面に立ち塞がるように大久保利通の銅像が立てられた。
大久保の銅像が非常に大きいので後ろに今まであったライオンズクラブの像が、小さく見えるようになった。大久保銅像の建設の前に両者のバランスに気をつけるべきだったと思う。
鳥丸静観堂医院?の碑
高見橋を越えて反対側に海軍大将樺山輔紀の大きな石碑がある。その下に殆どこれに隠れるように鳥丸産婆看護婦学校に関する石碑が立っている。鳥丸一郎医師は西南役に際し樺山と谷干城の熊本城に籠ったという経緯がある。彼は大正15年武町に鹿児島産婆看護婦学校を設立していたが私はそれは今の黒田踏み切りにあったと記憶している。当時高見馬場にあった石神産婆学校と産婆検定試験合格率を競っていた(当時は助産婦を産婆と言っていた)。年老いた石神先生を「徳子さあ」と言って私の祖父たちが医師同志のお付き合いをしていたものだ。鳥丸先生の静観堂について石碑に記載してあるが第U大戦の焼夷空襲で焼け爛れ碑文も風化して甚だ読み辛い、字面を辿るとやっと器械室(手術室?)、診脈室(診察室?)、浴室、薬室名などの字が拾える。また患者充満、虚室無しも読める。この碑文も確かめたいのだが手立てが見付からない。ご子息が戦後大学病院の産婦人科に居られたが既に故人だ。戦災により県庁にも保健所にも記録が無い。大学の助産婦学部も知らないし知ろうともしない。残念だ。此処の私の記載が唯一の思い出になるだろう。
※静観堂に付き御存知の方は是非ご連絡下さい。
6・17焼夷弾大空襲記念塔
甲突川左岸、高見橋の近くにスッと尖鋭に立ち上がった特異な塔がある。昭和20年(1945)6・17の夜23時、B29の大規模な焼夷弾攻撃があり鹿児島市全部が一夜にして焼け野が原になった記念塔だ。
私もその夜、煙に巻かれて防空壕の中で気を失い梅雨時の雨水が壕の中に胸まで溜まりその濁水に水没し息が詰まって眼が覚める事を繰り返しもう駄目だと何度思ったことか、頭の毛が焼けていた。その夜、200機のB29が来襲し13万発の爆弾が落とされ炎に巻かれて3,300人が焼かれ、20,000戸が焼失した。60年経った今でも累々と折り重なってズラリと並びまるで人の焼き鳥みたいだった。夜が明けて西鹿児島駅(今の中央駅)のホームに立った時、見えたのは照国神社の鳥居、山形屋、高島屋(タカプラ)、市役所だけだった。桜島航路の岸壁を歩いている人が正面に見えていた程だ。
この像は下の部分は猛烈な煙と炎が中天に向かって吹き上げる様を表現し、真っ直ぐに伸びた三角錐は昇天する魂を表現している。我々にとっては忘れ得ない思い出の塔だ。
西郷誕生地・大久保誕生地の碑
両者殆ど加治屋町の隣同士に立っている。両者の碑文が氏名を除いて殆ど同文であり石碑の大きさも質も酷似させてあるのは明治時代西南戦役後の官軍、薩軍の軋轢が当時の市民の間に尾を引いて大久保側にも西郷側にも差し支えないように考慮された物と聞いている。
私の小学校の頃は毎週日曜日早朝に必ず両方の誕生地の掃除をしていた。箒の目が乱れていると先生に箒の柄でどやされるものだった。敷地には何本かの楠の大木が立って鹿児島市の保護林になっているがその枝の祠ほこらに戦後暫く、毎年梟ふくろうが来て昼間はホコラから丸い眼で下を見降ろしているが夜になると「ホッホー、ホッホー」と特有な声で鳴いて気味悪い物だった。私の山下小学校時代にも校庭の楠に梟がいて朝礼に並んだ我々を見下ろしていたものだ。
堀井鶴畔先生の碑
碧水忽開新鏡面 青山都是好屏風
ある日私がそれを見ていたら丁度散歩中の川上南溟先生(鹿児島の書道家第一人者、堀井先生の高弟)が寄って来てこの文の意味は「前に甲突川が開け、後ろには城山が屏風の様に立っている」という意味だよと教えて頂いた。私が一中時代「習字」の時間があって堀井鶴畔先生に指導を受けた。物凄く偉い先生に教わったものだ。私の母は字も絵も格段に上手だったがその素質は残念ながら私には全く伝わっていない。今でも人に署名を求められると「字は書かないで恥を書く」と言ってパソコンに頼っているという情けない有様だ。碑面の正面上隅にある堀井先生の像は先生の温顔そっくりなのが印象的で懐かしい。
お祗園(おぎおんさあ)の石碑
朝東風に 緋の大傘の、たわむなり
祇園会晴るる 鹿児島の夏
山茶花社創業貴島黎明氏の碑がある。昔のおぎおんさーを忍ばせて懐かしい。
祇園祭は1000年前平安朝の頃疫病流行のお祓いの意味で京都から始められた。鹿児島に伝わったのは元禄の頃からだと言う。妙円寺参り、曽我の傘焼き、忠臣蔵輪読会が士族の行事なら祇園祭は町家の皆さんの疫病退散、商売繁盛祈願の行事だった。商家の皆さんの力の入れ方は大きく祇園祭の行列は長さは2キロに近く総員2,000名に及んでいた。
行列はまず露払い、次に大鉾、祗園傘となる、竿の高さは7m、根回り25cm重さ10キログラムの大傘を腕に乗せて差し上げたりするが、時には、肩、顎、頭に載せる。それも風が吹けば重い竿がぐらぐら揺れるので相当な訓練を要した。その技術を街中に披露するのは鉾や傘を担ぐ若い人の自慢だった。茶褐色の麻の赤衣で頭に篭桶を載せた10人前後の小母さん達の列は桜島から来たお百姓さん達だと教えられた。
烏帽子、直衣の神主さんが馬上でゆったりと通る。或る時私たちが一中時代に凄くしごかれたS先生が乗っているのに吃驚したことがある。そう言えば彼は八坂神社の神主さんだった。弓矢、鉾、御神馬、錦旗の列が通る頃に祭りは最高潮に達する。
まだ3〜5歳ぐらいの幼女達が10人前後、別々に小さな篭に載せられて通るが夏の暑さに疲れてぐったりと寝込んでいる。その脇では母親が団扇や扇子で風を送りながら付き添って行く姿はいじらしかった。親も娘も大変だったろうと思う。それに牛が山車を牽いて夏の日中の暑さの中を実に緩やかに通過する。その牛たちのホーデンがぶらぶらと下がっているのを見て子供心によく千切れないものだと思うものだった。最後に近く、女囃子はやし山が三味線太鼓で特有な抑揚の囃子で通過した。南券、北券の芸妓たちが乗っていた。
祗園の行列が通り過ぎ人の波が絶えて暑い日差しが傾くと「歓楽極まりて、哀愁深し」の寂しさを感ずるものだった。傘とか鉾、山車の行列は現在では町中に張り巡らされた電線や電車の架線及び自動車等の交通事情が邪魔してこのような優雅な行列は無くなり山車も自動車になりお囃子もロック・ジャズダンスなどに変わり全体の雰囲気が大分変わっている。何となく寂しい思いがするだけだ。
鶺鴒せきれいの詩碑
つばくろが縦横に飛び
鶺鴒(せきれい)が真っ直ぐに飛ぶ
この川の時間
南船社・東郷久義の碑がある。この川も以前はツバメ、カワセミ、各種のチドリそれにトビなどが一杯いたものだ。アカショウビンやゴイサギを見ることもあったが今はスズメ、とハト、カラス。時にツグミ、ムクドリ、ヒヨドリが姿を見せる位のものだ。荒れたものだ。
牛島満中将の碑
第二次大戦で沖縄の最高司令長官として摩文仁岡で自決した牛島中将の慰霊碑がある。戦後沖縄で戦死の現場を見てきた私としては当時の苦戦の戦況とその洞窟に彼と参謀の自決の状況が思い出されて感慨無量だった。彼の陸軍士官学校校長時代キリッとした軍装で講堂に一中の全生徒を集めて講話をされた記憶がある。
「矢弾尽き天地染めて散るとても
魂還り魂還りつつ 皇国護らん」
「秋待たで、枯れ行く島の青草は
皇国の春に蘇らなむ」
の辞世と彼が甲突川河畔で薩摩の郷中教育を受けて育った旨を書いた大きな石碑がある。
佐多愛彦先生の碑
赤御影石の上品な碑石がある。江戸末期薩摩に滞在したウィリスの鹿児島医学校の出身者で東大にて病理を学びドイツに留学し大阪医大の創立に尽くしドイツ協会の会長をしていた。第二次大戦の際、戦火で二度も焼け出されてまさに廃校になる寸前の県立鹿児島医専を国立大学医学部に昇格するのに尽力してくれた人物である。
「瑞雲祥烟」(めでたい)の揮毫あり
法元(ほうが)盛孝の碑
伴ばん 友三郎の碑
風化が激しく文字が読めない。正風の署名があるから相当な地位の人だろう。公園課、教育委員会などに問い合わせても返事がない。
刑務所壁の石碑
甲突川左岸、丁度MBCテレビの向かい側に半円形の階段座席になった石畳があるがその傍らに石碑があってこの川の護岸は永吉の刑務所から持って来たと記してあった。私は永吉の刑務所に若い頃受刑者の診療に行ったが、刑務官の受刑者に対する冷厳冷酷な扱いに驚いた経験がある。この刑務所の石塀の一つ一つに罪人の血と汗と涙が籠っているのだとしみじみと思ったものだが何時の間にか無くなっている。工事担当者も知らなかった。事情を知らない現場の人間が棄てたのだろう。此れでまた鹿児島の歴史が消えた。
横小路喜代嗣元市医師会長の銘碑
昭和58年2月11日(紀元節)の夜、天文館で私は横小路元鹿児島市医師会長と大いに飲んで「紀元節」の歌を唱和して機嫌良く別れたばっかりだったのに彼はこの場所で車に跳ねられてしまったのだ。彼は市立病院に運ばれて万全の処置を施されたがついに人生の働き盛りの56歳にして惜しまれて死去した。彼は立派な医師会長だったが政治家になっても大成するだろうと言われていた。現在は武之橋左岸の事故現場に仏像が立っている。此処の仏像にはいつも綺麗な花が飾られているが奇特な方も居られるものだ。私は彼の没後30年近い今でも毎年命日の2月11日には彼の涙橋墓地にお参りをしている。
今回私は甲突川の石碑を辿ってみた。各々その碑文に重要な歴史が刻まれているのだが何分日数が経っており風化が進んで読み難くなっている。此れを解明すべく公園課、教育委員会、文化財保護、観光課、文書課などに問い合わせをすることが多い。特に鹿児島の場合薩英戦争、廃仏毀釈、西南役、第二次大戦などにより市内が何回か全滅しているので古い歴史が消滅していることが多いが、為政者にそれを復帰させようという気迫が足りない。例えば城山は天然記念物だから手を入れられない、私学校跡の弾跡も史跡だ、故人の歴史や住所を聞いても個人情報だ、文書のコピーを取ろうとしても版権の侵害だ、文書の保管義務は5年間だ、以前の文書は見付からない等とがんじがらめに縛られて動き難い事甚だしい。何回か悔しい思いをした。此れでは薩摩・鹿児島の貴重な歴史は間もなく消えてしまうだろう。考慮すべきだと思う。

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