私は幼い頃から種子島航路を往復していた。その頃は船底が船室だった。後に屋久島の営林署の診療所に勤務した時は木材運搬の貨物船に便乗して往復したものだった。
或る年、学会出張の時関門トンネルが浸水して不通になり急遽別府から関西汽船で大阪まで瀬戸内海を渡ることになった。その時の夜景が今でも忘れられない。闇の海に点在する多くの島々の灯台には赤い灯青い灯が点滅し、岬かと見れば島なり、島かと見れば岬なりの名句を思い出した。あれやこれやで私は船の旅に興味を持っていた。
私が最初に船らしい船に乗ったのは客船にっぽん丸(1万トン)だった。関門海峡の関門大橋の下を潜った時は感激だった。次に飛鳥T(2万トン)に乗船した。四国の足摺岬、潮の岬の沖を通りあの両方の灯台を見た時は第二次大戦中に頻繁に聞いた空襲警報のラジオの悲鳴の様な放送を思い出して感無量だった。先日機会あり陸路足摺岬に行き陸地から遠く沖合いを行く平和な船を眺めて戦時中の船乗り達は敵の空襲・潜水艦に怯えながら、どんな思いでこの海を航海していたものだろうかと思った。
飛鳥Tで航海中遠州灘で大変な嵐に遭って船は大分揺れたが周りを通る大小の船が木の葉の様に揺れて散々難儀をしているのに何時の間にか飛鳥Tがそれらを次々に追い抜いて行った。
次に飛鳥U(5万トン)に乗船した。此れは流石に大きい。船としての貫禄も充分ある。この船での航海中に能登半島沖合いで大きな台風に逢ったがスタビライザー装着の安定感は素晴らしいものだった。船室のバルコニーのデッキチェアーが丁度ビルの9階ぐらいの高さだったが其処まで波の飛沫が飛ぶ位だったのに船室では揺れを感じなかった。さすがに5万トンだ。大きい事は良いことだと思った。
船客は800名ぐらい、客室はまるで一流ホテル並みだ。テーブルにはワインのセットを備えて豪華な感じ。木目調の家具も上品でテレビは勿論携帯もインターネットも申し込めば使える。船の航路図も出るので外を見られぬ夜が安心だ。
船の展望室もゆったりとして物静かな雰囲気だ。談話室もスタッフ付きでコーヒー・紅茶、ケーキの接待をして呉れる。(写真@)月の夜、星の夜はなんともいえない情緒がある。丁度満月だったので雲隠れする夜景を撮ってみた。(写真A)また豊後水道の夕焼けが綺麗だったので撮影した。(写真B)
船の旅では食事が最高であるとよく言われる。飛鳥Uの食堂も頗る広く豪華だ。乗客は船室により2つの階に分けられる。献立も味付けも最高だ。上階船室の人は船長と一緒のテーブルにつく。時にはフォーマルな着衣を要求される。(写真C)場所を換えると寿司コーナーがあり海彦といって飛鳥Tより継続した板場さんも居てゆっくり出来る。劇場も映画館も一流だし、一日中何等かの催し物が絶えない。(写真Dは飛鳥Tの物だがUは随分広い)図書室、麻雀、囲碁室、浴場ラグジュアリーなども完備し10日位はアッと言う間に過ぎてしまう。
関門海峡の雰囲気は門司、下関の周囲の山並み、700mに過ぎない狭い海峡、激しい潮の流れ、頻繁に行き交う多くの貨客船、それに大橋の存在など鹿児島では味わえない特殊性が有る。丁度夜明けに関門大橋の下を潜った。(写真E)60mの橋の下を50mのマストの飛鳥Uがしずしずと潜って行く。この橋の下は今まで何回か通ったのに改めて圧倒される。デッキの鴎がポーズを取って呉れた。(写真F)
最上階のデッキにレーダー群が並んでいる。このデッキの長さ約100mぐらい。(写真G)船の中央部には一回り400mの長いプロムナードデッキがあり潮風に吹かれながら楽しいジョギングが出来る。
外国旅行には面倒な手続きが要る。言葉も習慣も違う。英語の話せぬ私は思わぬ不自由をする。飛鳥の場合乗るのは日本の客船でスタッフは日本人だし従業員も結構日本語を話せる。船内掲示も日本字であるのが助かる。大体船の旅は飛行機みたいに乗り継ぎとか荷物の運搬の心配が無い。最近経済的で需要も多いショートクルーズも数多く計画されている。船会社も団塊時代の退職者の需要を見込んで便の増加や船室の増設、改造に力を入れ船の外観形式も共通してきたし重量も1万トンという大型化が標準になりつつある。(但しそのため港の深さやベイブリッジの高さが障害になることも有るそうだ)
時代は変わってきつつある。今までしたくても出来なかった定年後の夫婦・友人同士で名所、遺跡廻りを愉しむ良い機会と思う。一人旅でも結構有意義な時間だ。 |
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写真@
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