随筆・その他

エジプト再訪と古代エジプトの医学・医療

西区・武岡支部
             松下 敏夫

 わが国の縄文時代、BC3200年頃に中央集権的統一国家が形成され、BC31年にプトレマイオス朝が滅亡してローマ帝国の支配下に入るまでの古代エジプトでは、ヒエログリフ(象形文字)が使われ、ツタンカーメンの黄金のマスクに代表される絢爛たる文化が華開いていた。
 北京オリンピック開催の2008年4月、「神秘のエジプト・ナイル川クルーズ10日間」というツアーに参加して、エジプトを再訪した。
 前回は1981年9月に第20回国際労働衛生会議(ICOH)がカイロで開催された折で、時間的制約のため、古代エジプトの息吹きに触れる機会は、残念ながら、カイロのエジプト考古学博物館やギザのスフィンクス・ピラミッドの見学しかなかった。
 今回の訪問では、日程の制約はあったものの、カイロ・ギザ、アレキサンドリア、ルクソールなどで世界遺産登録の多数の古代エジプトの遺跡見学を始め、ナイルエキスプレス(寝台列車)やナイル川クルーズなど極めて刺激的な旅を満喫することが出来た。
 ここでは、この旅行に関連して、古代ギリシャ医学にも大きな影響を与えたといわれる古代エジプトの医学・医療に関する事項を中心に若干紹介してみたい。

訪れたエジプトの印象
 前回、四半世紀前の1981年に訪れた折に衝撃的だったのは、この学会で名誉総裁を務め、開会式で歓迎演説を行った当時のサダト大統領夫人が、学会終了直後の10月6日、イスラム過激派による暗殺事件で未亡人となったことである。こうした社会状況を反映して、夜半に到着したカイロ空港は、自動小銃を持った多数の髭面の兵士が警備に当っており、何とも不気味な雰囲気であった。加えて、カイロ市内の標識はほとんどアラビア文字で記されていて全く理解できず、強烈なカルチャーショックを覚えた。別送品を送るために訪れた中央郵便局でも英語がなかなか通じず、手続きの場所の確認や長い待ち時間でいらいらして、終了するのに2時間を要した。
 今回の訪問では、前回みられなかった多くの高層建築が建ち、トヨタや中国の車を含む自動車が増加して交通渋滞が酷くなり、宿泊したホテルの別館は大型ショッピングモールとなっており、市内にはスーパーマーケットも多数あるとのことであった。各種の標識や店の看板もアラビア語以外で記されているものが多くみられた。
 また、近接のパレスチナ紛争の影響はあるものの、国内は、前回に比べるとかなり落ち着いた雰囲気のように見受けられた。
 なお、カイロ大学日本語学科を卒業したという現地ガイドの話では、エジプト人は日本が大好きという。その理由は、子供の頃から可愛い日本人形に触れ、日本車や洗濯機などは高いが性能がよくて人気があり、また、日露戦争で小国日本が大国ロシアに勝ったことが評価されているという。近年、日本企業の進出も著しく、日本とエジプト間に直行便もできて日本人観光客も大変多くなっている。しかし、エジプト人が日本へ行くためにビザを取得するのは大変制約があって難しいと嘆いていた。

コム・オンボ神殿と医療器具等のレリーフ
@コム・オンボ神殿


A出産と医療器具のレリーフ


Bパピルスに描かれた医療器具


Cサッカラの階段状ピラミッド



 クルーズ船でルクソールの南約170km、アスワンから北約50kmにあるナイル東岸のコム・オンボ(Kom Ombo)(アラビア語でオリンポスの丘という意味)に到着し、徒歩数分の小高い丘にあるコム・オンボ神殿を訪れた。
 この神殿は、塔門の入口も至聖所も左右対称に設計され、入口から左側はナイル上流域の神、ハヤブサの神ハロエリス(ホルス神の別名)、右側は本来のコム・オンボの神であるワニの姿をした水神(ソベク神)の二つの神を祭る珍しい二重構造の建物になっている(写真@)。
 建設は今から約2250年前のプトレマイオス朝時代で、ローマのアウグストゥス時代に完成した神殿で、内部は典型的なグレコ・ローマン時代の様式である。「エジプトはナイルの賜物」といわれるように、ナイル川の恩恵を受け、輝かしい文明を築いた。構内には、ナイル川の水位上昇による氾濫を事前に予測し、当年の豊かさを評価して課税にも用いたという水位計(ナイロメーター)などもある。
 神殿の列柱の柱頭には、さまざまな様式が用いられ、外壁や天井は崩れているが塔門や列柱、内壁などには彩色がかなりはっきり残ったさまざまな美しいレリーフがあり、ヒエログリフで描かれた最古のカレンダー(太陽暦)には日付と共にその日の捧げ物が刻されているという。
 この神殿は、ローマ時代に病院としても利用されていたとのことで、医学の神と崇められたイムホテプ(Imhotep、後述)へ捧げ物(医療器具)をしているレリーフ、出産や医療器具のレリーフとされるもの(写真A)など変わったレリーフも刻まれている。
 ちなみに、古代エジプト時代の出産は座ったまま行われ、床においたレンガの上にしゃがんで産み、そのレンガは『誕生のレンガ』といい、お産の神メスケネトの化身とされていた由である。[図説]ヒエログリフ事典(吉村作治監修)によると、出産する女性のヒエログリフは、女性の下に赤ん坊の頭と両手が出ている形となっており、この壁に描かれていたのは、「異型」(?)なのかもしれない。
 医療器具のレリーフには、ナイフ、ドリル、鋸、鉗子、ハサミ、スプーン、メジャー(目盛り)など、今日使用されているものに酷似したものが刻されていた。しかし、残念ながら、狭い通路で押し競饅頭状態の見物客に押されてこのレリーフは上手にカメラに収められなかったので、購入したパピルスに描かれたもので代用することとした(写真B)。

古代エジプトの医神イムホテプ
 古代ギリシャのヒポクラテス(Hippocrates, BC460-377)やガレノス(Galen,AD130-216)は、その著作で、メンフィスのイムホテップ神殿で研究されたエジプトの著作から得た情報に感謝の意を表しており、彼らの業績は、古代エジプトの医学・医療から大きな影響を受けているようである。したがって、医学の父はギリシャ人(アスクレピオス)ではなくエジプト人(イムホテプ)だとも評されている。
 カイロの南約25kmに位置するサッカラ(Saqqara)は、エジプト古代王朝の発祥地メンフィス(Memphis)のネクロポリス(死者を葬るための「死者の町」)であったところで、ここには多くの墳墓や遺跡がある。
 なかでも、古王国第3王朝時代のジェセル王(Djozer, 在位:BC2667-2648)に仕えた宰相イムホテプ(Imtehop, BC2650-2600?)が設計した高さ約60m、基底部140×128mのエジプト初の階段状ピラミッド(写真C)は、後のピラミッド建設の原型となった。
 イムホテプは宰相であるとともに神官、書記、建築家、占星術師、詩人、医師などとして優れた才能を発揮した人物と伝えられ、ファラオ以外で唯一の神とされた人である。
 古代エジプトでは、医学のシンボルは人間に鳥(トキ)の頭を持った神トトで、トトは、ヘルメス、トリス、メギストス「三重の知恵者」で、医術・錬金術・芸術を生み出した神とされ、イムホテプは、このトト神の知恵を受け継いだ人物とされ、ギリシャ人は、イムホテプをギリシャ神話に登場する名医アスクレピオスとも同一視したという。
 階段ピラミッドの近くには、2006年9月に開館したイムホテプ博物館があったが、時間の制約で残念ながら見学できなかった。

古代エジプトの医学・医療の記録
 BC3000年以後の古代エジプトの医学・医療に関する現存の古文書は17種類あるそうだが、代表的な重要なものは、所有者の名前を付したエドウィン・スミス・パピルスとエーベルス・パピルスとされている。
【エドウィン・スミス・パピルス】
 Edwin Smith(1822-1906)はアメリカ人で、カイロでの探検家・金貸し人・商人とされ、ヒエログリフで書かれたこのパピルスを1862年にルクソールで購入し、彼の死後、娘がニューヨーク歴史協会へ寄付し、現在はニューヨーク科学アカデミーが所蔵している。
 この文書は、文法や語彙の証拠から、非常に古く、多分、BC3000年から2500年間のものが何度もコピーされてBC1600年頃に筆記者によって再コピーされたもので、情報の多くは、BC2640頃イムホテプの教えによって書かれたものによるという。パピルスは4.68m×33cmで22列からなり、表面は17頁(377行)、裏面は5頁(92行)と後述のエーベルス・パピルスより短い。内容的には、世界初の外科的論文とされ、頭部外傷、脊椎骨や顎部などの骨折、脱臼など神経外科及び整形外科の48症例が取り扱われ、各々、系統的に詳細な診断、治療、転帰に分けて記載している。
【エーベルス・パピルス】
 エーベルス・パピルスは、ドイツのエジプト学者で作家のGeorg Ebers(1837-1898)が1862年にエドウィン・スミスの所有となっていたものを1872年に購入したもので、古都テーベ(現在のルクソール付近)の共同墓地に埋葬されていたミイラの股間部から見つかったもので、現在は、ライプチヒ大学図書館が所蔵しているという。これは、ツタンカーメンも在位した第18王朝の紀元前1550年頃に編集された最も完全な世界最古の医学書の一つとされる。ヒエログリフで書かれたこのパピルスの巻物は、幅30cm、長さ20.23m、109章のパラグラフで構成され、総行数2289行で、各々が特異な疾患に対応したブロックで整理されているという。
 内容的には、腸疾患、蠕虫病、眼科、皮膚科、産科、婦人科、歯科などの傷病の診断、治療が記され、800種の処方と700種の薬剤がとりあげられ、最後に病魔退散の呪文や魔術療法が記載されている。また、驚くほど正確な全身の血管や血液供給を中心とした心臓機能の存在に関する記述(ウィリアム・ハーヴェーが血液循環説を提唱するより4000年以上も昔!!)を始め、ワニの咬傷、産児制限、糖尿病、喘息、トラホーム、鉤虫、フィラリア症、関節炎の型、うつ病などの処方も記載されているという。
【古代エジプトの医学・医療と医師】
 古代エジプトにおける医学・医療の基本的な考え方は、経験と観察に基づいた合理的なもので、皮膚や目など観察しやすい部分は医師が合理的な治療を行い、体内組織の病気については聖職者でもある魔術師の祈祷が中心であったという。現存するパピルスによると、当時は900種近い処方がつくられていた由である。
 医師の業務は、ミイラ作りから外科や解剖による治療にわたり、医師には、聖職者と魔術師との区別はなかったという。また、当時の記録では、獣医を含む医師、外科医、眼科医、歯科医、婦人科医、その他の専門家についても言及しており、著しい専門分化が行われていたようである。しかし、BC500年のギリシャの歴史家ヘロドトスによれば、古代エジプトでは歯科は重視されていたが外科のレベルは低かったという。

おわりに
 古代エジプトにおける衛生状態や医療に関しては、BC1900年頃建設の都市の遺跡からは排水溝が、BC1400年頃の遺跡からは浴室跡やトイレ用の椅子なども発見され、BC1000年頃からは、現在の病院に相当するサナトリウムも設けられていた。他方、ピラミッドなどの建設では多くの人命が失われ、黄金のマスクやクレオパトラが愛用したエメラルド装飾など絢爛豪華な文明を支えた職人たちは、さまざまな職業病にも悩まされ、ミイラの解剖や神殿のヒエログリフなどからは、炭肺を始め、痘瘡、住血吸虫症、象皮病、クル病、小人症、虫歯、肥満など、さまざまな疾病で古代エジプト人が悩まされていたことがうかがわれる。今後の遺跡の発掘や研究によって、さらに、さまざまな興味ある事実が明らかにされることが期待される。
 なお、エドウィン・スミス・パピルスやエーベルス・パピルスに関しては、その一端を資料で知り得たのみなので、今後、その全訳文を読み、古代エジプト人の英知に触れてみたいものである。


このサイトの文章、画像などを許可なく保存、転載する事を禁止します。
(C)Kagoshima City Medical Association 2009