随筆・その他
日 奈 久 温 泉 あ れ こ れ
− 西 南 役・御 船 の 激 戦 −
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日奈久温泉は歴代細川藩の持湯で昔は藩主専用であった。島津の殿様が参勤交代のとき立ち寄って藩主の厚意で殿様用の温泉に入られていた。狭いながらも薩摩街道と名の付いた通りがある。今回私は西南の役に際して日奈久の立場を調べようと思い立ち、八代、小川町、御船、川尻、熊本を廻ってみた。
日奈久は西南役の始め薩軍の兵站基地だったので官軍の目標となり艦砲射撃の援護の元に官軍六千人を上陸させ薩軍の熊本城侵攻の背後を襲うことになった(3月19日)。上陸衝背軍という。黒田・高島(薩摩藩士)の率いる官軍と川路(薩摩藩士)の率いる警視隊を日奈久に上陸させた。衝背軍の中の薩摩士族の指揮官達は同じ士族の薩軍に砲弾を浴びせる事に対して如何なる感慨だっただろうか(此処に薩軍の中には城下士族と郷士族との根深い葛藤があったのではなかろうか)。日奈久港に上陸記念碑が立っている。(写真@)
その際海岸の旅館(八代屋)の柱に弾丸の傷が残っているという。またこの時の不発弾を土地の若者が弄んで爆発し即死したとのエピソードもある。官軍と薩軍は互いに激戦を交わしながら一進一退し、小川、益城、緑川等の広い範囲を転戦し御船に達した。御船は御船川、緑川を通して川尻、宇土に直結し肥後でも指折りの交通機関の要衝として商店や酒倉が並んでいた。西南戦役中は県庁が疎開していた事がある。
戦いが進行し御船の苦戦を知った永山弥一郎は熊本の二本木の本営から自分の負傷を押して人力車で急遽応援に駆けつけた。彼は「諸君何ぞ怯なる、死して忠臣と称せらるるはこの時にある、各々死力を尽くし刀折れ矢尽きて止まん」と薩軍兵士を叱咤激励したが戦況を覆す事は出来なかった。御船の戦いで両軍は数百の戦死者を出し、為に緑川は血で染まったという。挽回不能とみた彼は直前に民家の老婆に「この鞄の中に代金が入っているからそれは家を譲って頂くお礼である」と言って鞄を渡し民家に放火し従容として火の中で割腹して果てた。老婆は係り合いになるのを恐れて代金の入った鞄を火の中に投げ込んでしまった。老婆は後に永山の潔さに心を打たれて自分の処置を後悔し永山の遺体を手厚く葬った。永山は生前薩軍を名乗る輩(事実は違うらしい)が土地の人々に暴力を振るうのを聞き「我々の志は諸君を救う事にある、苦しめる事ではない」と言っていた。彼は御船宿営中世話になった家の主人に秘蔵の掛け軸を贈って感謝して去った。彼の行動力は抜群だが人情味も溢れる男であった。西郷隆盛が戦役の行動中地方住民に対して優しく接していた事と似ている。(薩南血涙史)
御船の人々は今も尚、彼の人格を忘れ難く永山を土地の守り神として尊敬している。永山盛弘(通称弥一郎)自刃の地に石碑が建てられたが碑銘は住民に請われて西郷従道が書いたそうだ。尚、彼の死に際して部下であった荷駄大隊で士族の税所篤信も同時に同じ火炎の中で殉死した。石碑は宅地造成中に持ち去られて今は御船クリニックの駐車場に木造になって目立つ所に立っている。(写真A)然も町の主催で昭和46年(1971)4月「御船西南の役まつり」が行われ薩官両軍の慰霊を弔っている。(御舟町役場資料)
私は肥後平野の戦跡を廻り緑川の広い河川敷、長い土手を歩いて戦争の痛ましさをつくづく思いながら永山弥一郎(盛弘)を偲んだ。彼は戊辰役の後、黒田清隆の下で北海道屯田兵の長となり札幌の開発に力を尽した。私は当時の屯田兵の大隊本部と宿舎を見学したがあの粗末な家屋で北海道の積雪時の苦労は大変だっただろうと感銘を受けた事が有る。彼は明治政府が樺太千島交換条約を締結したのに反対し官を辞めて鹿児島に帰った。然し私学校に組せず「今般政府へ尋問これあり」との薩軍決起には乗り気でなかったが彼の武勇と人格を見込んだ桐野利秋の説得に従う事になった。そして遂に戦死したのであるが、彼は存命すれば明治政府の重鎮として大いに活躍する人物で、その死は非常に惜しまれる。彼の碑は鹿児島市薬師町にある(熊本県資料集成13集・西南役と熊本)
御船では永山が戦死した時(4月12日)と熊本城の奪還に失敗し薩軍が敗走した時(4月20日)に2回戦いが行われている。2回目の時は薩軍の敗北は決定的だった。このとき薩軍は緑川の土手にて官軍により思う存分狙撃され恰も浮鴨を射るが如しだった。薩軍にはウィーリス門下の救護班が従軍しており各地の仮病院に収容されたが、充分に手が廻らなかったので軽傷者は帰郷させていた。(薩南血涙史)官軍も軍団病院・大包帯所を設立して治療していた。後に薩官隔てなく治療したのが博愛社・日本赤十字社の基になった。薩軍に従軍した医師団は官軍の治療もしたというので戦後の刑罰はまぬがれたという。
御船を訪問した後、道を辿って熊本に行った。壮大な熊本城は明治10年2月19日、宇土櫓を残して失火の為、全焼した。(現在は復元されている)城下町も城からの見通しを良くする為に鎮台兵によって常識的な作戦としてスッカリ焼き払われた。この時の激しい火炎は御船からも見えたそうだ。然しこの城の火災は城内に参謀として薩摩藩士樺山資輔、医師として鳥丸一郎など薩摩兵が多数いたが、その薩摩兵の放火だとか(郷土人系・南日本新聞)、西郷に心を寄せた熊本士族の放火、城内の将校家族の炊事の失火、または谷干城の自焼説などあるが決め手になる資料はない。(写真B)
然し薩軍の決起は明治10年(1877)2月14日である。熊本城火災の時(2月19日)は別府晋介の本隊は日奈久に達していた。薩軍は2月22日熊本城総攻撃に掛かったが頑丈な熊本城は容易に落ちなかった。3月19日に官軍は衝背軍が日奈久に上陸してやっと4月15日に熊本城と連絡している。薩軍は士族軍の力を過信し熊本城を簡単に抜けると思っていた。私は今回改めてこんなに頑丈な大規模な城を四百年前に築いた加藤清正に改めて感心した。宇土櫓、行幸坂の桜が満開で非常に美しかった。櫓の4階の展示室資料を見学して、此処で骨肉相食むような凄惨な戦いが行われたと今更の様に篭城軍、薩摩軍の攻防の激しさを知り展示された錦絵、血染めの軍服を見て両軍有能の士の為に惜しいことだったと思っている。西南役の戦死者は両軍とも七千人に及び官軍は官軍墓地として葬られた。鹿児島では園之洲(今の甲突川五橋移設の地)に官軍墓地はあった。私は官軍の墓地はあるのにどうして薩軍は無いのだろうかと思うものだった。というのは鹿児島に来た官軍の軍船から始まったと見られる戦後コレラの大流行があり、県下の死者は二千五百以上となる。勝手に死者の埋葬は禁ぜられ薩軍の埋葬は遅れて明治16年になって鹿児島南洲墓地に埋葬されたのである。このコレラ大流行から県議会に県立病院・県立医学校の建設が上程され、これが今の大学医学部となった。(鹿児島の医学・森 重孝)。
官軍側に参謀長として樺山資紀、児玉源太郎、川上操六、川村純義、大山巌等がいた衝背軍には高島鞆之輔、黒田清隆、川路利良等がいて熊本城の防戦に当たった。一方、薩軍には西郷隆盛を頭に桐野利明、篠原国幹、別府晋介、永山弥一郎など錚々たる人物がいて優秀なる士族同士が激しく攻め合ったのである。田原坂にしろ城山にしろ負傷者、病人を収容施設の中でも争って無惨な殺戮をしたという、同朋の争いは一段と深刻と言われる。私は西南戦役の錦絵を見たり、戦跡を訪ねてしみじみと野蛮な事をしたものだと残念に思う。
日奈久温泉は南北朝時代から六百年の歴史を持つ静かな落ち着いた温泉街である。文化文政の頃全国温泉番付に西方前頭九枚目に記されている(当時霧島は西方八枚目)。徳富蘆花・徳富蘇峰兄弟も宿泊したし、西郷隆盛も利用した。前衛俳人山頭火は温泉が気に入って木賃宿に逗留したし、その宿は今も昔のまま暗い電気のまま残されている。山頭火の碑は四国お遍路の旅でも見掛けた。近くは各宮殿下御宿泊の記録もあり、戦時中は軍の療養所となり白衣の傷病兵が溢れ娯楽設備も全盛だった。背後のお宮に大きな石造りの相撲場があり、小型ながらローマのコロセウムを思わせる。温泉は弱アルカリ性で肌に心地よい。女性に喜ばれるそうだ。古い街並みの古びた宿に浸りながら感慨無量のものがあった。

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