私は大正末期から昭和の始めの幼い頃西駅(今の中央駅)の西側に住んでいた。周りはまだ田圃で次第に埋め立てられて住宅地になっていくところだった。

子供の頃は誘い合って良く武岡に登っていた。当時べつに登山道路があるわけではないシラスの崖を攀じ登っていた。登る途中では、カカラン葉(芳香があり団子餅を包む有名な郷土菓子だった)や山芋の根(自然薯)、実(ムカゴ)を摘みながら登っていた。又孟宗竹の皮を集めて「あく巻き」を造る為に持ち帰ったり結構自然を愉しんでいた。小学校に行く前だったから今から思えばこんな坂道をよく登ったものだと思う。先日行ってみたが団地が広がってずらりと大型マンションが建ち並び昔の登山口は分からなくなっていた。子供同志で行くとき曾祖母が「気をつけやんせお、かったとがくっでな(気をつけなさいよ、変った人が来るからね)」と声を掛けるものだった。その当時から変人、不良はいたものだ。
頂上は孟宗竹、め竹、キンチク竹(ホウライ竹)その他幾多の種類の藪があり適当な空き地が広がって良い休憩地だった。眼下に西駅の駅舎を見下ろし、また原良、西田から荒田の田圃を見渡してそれに甲突川の屈折が綺麗で天保山の松林まで見渡せ、桜島の勇姿が見事だった。現在みたいにビル等全く無い頃だったのだ。当時何故登ったかと問われても返事の仕様が無いが静かな緑の大地を見渡すのが好きだったのだろう。
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@カクイわた
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A西南戦役砲台跡
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B殉国祠堂
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C摩利支天
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D八田知紀碑
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E常盤トンネル
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F新幹線トンネル
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G武岡トンネル
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此処に白いペンキの木枠を組んだ大きな「カクイわた」の看板があった。昭和の時代、長い汽車の旅を経て故郷に帰る時、田上に差し掛かって桜島が見え、西駅(今の中央駅)のホームに立った時この「カクイわた」の看板を見てやっと帰ったなとホッとしたものだ。丁度長島美術館の展望台の一段下の辺りだ。余り崖ップチに近くて危険だというので基礎だけは後ろに30mずらして残っているそうだ。先日ロスアンゼルスに行った時、街の外れの山の上にテレビでよく出てくる「ハリウッド」という英字の大きな看板が街から鮮明に際立っているのを見てそれに張り合うような昔の武岡を思い出した。昭和29年8月に建てられたが土木事務所から鹿児島県屋外広告物に関する条例の改定があって昭和54年ごろに撤去されているそうだ。懐かしい限りであった。(写真@)(カクイわた・岩元 基氏の提供による)
子供の頃の山道とは別に建部神社の裏から武岡に登る自然遊歩道があったが現在武岡中学校の通学路となっている。そこから美術館の脇を通って今の樟南高校グラウンドを横切って今の武岡ハイランドに抜けていた。当時は未だ学校も団地もない、起伏の多いただの広い常葉樹林だった。鳥も動物も自由に見られたが現在は驚くほど切り開かれており中央駅から直通するトンネルが出来て大きな団地とマーケットが出来ている。
丁度長島美術館の脇に「西南戦役砲台跡」の碑(写真A)がある。私は官軍が城山に向けて砲撃したとばかり思っていた。然し史実によると(鹿児島市の史跡・鹿児島市編)西南戦役の時薩軍の砲台が官軍を悩まし、蟻が這い上がるようにして登ってくる8000の官軍を600の薩軍が抜刀してチョイヨ、チョイヨ「死ねや死ねや」の掛け声で迎え撃ち、銃声と鬨の声は山を揺るがせたという。薩軍は砲を枕に全員討ち死にせんとの誓いで勇敢に戦い、血は流れて川をなし屍(しかばね)は積んで山をなすという凄惨な修羅場だった。然し夕刻と共に暴風雨となり薩軍の大部分は砲の傍で討ち死にし遂に官軍の占領する所となり一部は薩軍の本隊と合流して城山に篭って全員戦死したのである。(薩南血涙史)武岡での激戦がこんなに迄酷かったとは現在の平和な武岡からは考えも及ばない事で申し訳ないことだったと思う。
西南戦役も終盤になり官軍司令官川村純義(薩摩士族)は9月23日の城山総攻撃を通告してきた。中秋の名月のもと海軍軍楽隊は指揮官の命により武岡(明神山とも言った)の頂上、薩軍の砲台激戦の跡地から城山に向け惜別の音楽を演奏した。薩軍からは村田新八が外遊で覚えたアコーディオンや薩摩琵琶も奏されたという。(伊牟田比呂多・城山陥落と判官びいき)その時全軍に物音を立てないように静かにせよとの命令が出たそうである。武岡から城山まで聞こえたのだろうかと思うが私の子供の頃は錦江湾のポンポン蒸気の音が2キロを越えてよく聞こえていた。空気は澄み邪魔になる大きな建築物は無く全く静かな街だった事を思い出す。官軍には大山、野津、高嶋ら郷土出身司令官がおり彼等の計らいで西郷が好きだったという花火を盛大に打ち上げた。薩軍にも西郷始め村田、桐野などのそうそうたる先輩各位がいたのだ。彼我の身内同志で闘った将兵の感慨は如何許りだっただろう。残念ながらこの砲台跡の碑は私有地になって市民が自由に見られなくなっている。
昭和12年私が旧制一中(現鶴丸高校)に通う頃から戦時色が強くなり世の中が騒がしくなり出した。武岡に高射砲陣地が出来て今の美術館の辺りは厚いコンクリートに覆われて大砲や物凄く大きなスーター・サックス、チューバ等のラッパを纏めた様なグロテスクな聴音器という大物が据え付けられた。これで飛行機の来襲する方向を探るという今ならレーダーというところだ。その為には工兵隊の部隊が来て今の自動車が通う登山道路を構築した。部隊の集合場所が今の植林地の辺りにあって神社が祭られて兵隊が朝夕捧げ銃などやっていた。今では神社は跡形も無く表に「殉国祠堂」裏に「昭和5年10月5日」と記した1m位の石碑が建っているだけだ(写真B)。丁度満州事変の頃だ。これから軍の圧力が強くなっていった時代で碑文にも何等かの意味が有るかもしれない。B-29の来襲に此処の砲台が応戦しても弾は敵機まで届かずに機体の下で破裂して白煙を残し、敵機は悠々と飛び去るだけだった。戦後陣地は撤去されたがコンクリートの基礎は巨大な塊になって何時までも残っていた。その跡に現在の長島美術館が建っている。
武岡の麓に広大な島津家の笑岳寺墓地があった。相当広かった墓地は昭和44年ごろ武岡の長島美術館の後ろに移転して跡は数多くのマンション及び小さな公園になっている。
又武岡墓地の外れには家畜を供養する馬頭観世音らしい自然石が立っており裏面には「地域農民の家畜の墓地」と彫ってある。石の表面には「摩利支天(インドの神様で武士・力士の守り神)阿修羅の軍を調伏した」と刻んであり郷中の信仰が厚いという。神仏混合の形で「まりすて」と呼ばれ何となく曰くありげな自然石の碑である(写真C)。
この付近は南北朝の時代(700年前)に畠山氏と肝付氏が懐良親王の吉野朝の為に北朝側の島津氏と戦った古戦場だったとの事、(青木が森)の古戦場、首塚といわれる。(鹿児島県地誌、明治17年編纂)
伊敷小山田から甲突川の水を引いて武岡の麓を通り原良、西田、荒田、田上などの広い田圃を潤して島津の財政を助けてきた石井出用水がある。終末では斉彬公が水車を利用して此処で日本で初めて紡績を営んでいた所だ。史書によるとこの用水は船が通っていたという(鹿児島市西部の歴史)。確かに昭和の始め頃までは私の記憶でも綺麗な水がとうとうと流れ各屋敷ごとにその邸の規模により苔むした大小の石の橋が掛けられて美しい物だった。今は都市計画の造成、道路の拡張により全く消滅している。
武岡公園の西側裏手に桃岡(とうこう)公園があった。桃岡は「吉野山 霞みの奥は知らねども 見ゆる限りは 桜なりけり」で有名な八田知紀の号である。幕末から明治にかけて日本の国文学の大家で皇室の歌道御用係を務め高崎生風、税所篤子、黒田清綱等の弟子を教えた人物である。武岡北の端を登る水上坂への道路から左に曲がる入り口に小さな「桃岡公園入り口」という石碑が今も残っている。余り広くない公園は少し高台になっており桜島を見渡せた。梅や桜、桃もあったが昔の記憶は定かでない。知紀は尊王愛国の志篤く幕末に際しては東征の軍に従い大いに士気を鼓舞したとの碑銘を記した大きな石碑が立っていたが今は武岡の頂上で武岡トンネル換気所と樟南高校の野球グランドの間に移されている(写真D)。
武岡には三つのトンネルが掘られている。北側の常盤トンネル(写真E)は市街地から武岡団地に行く最短距離、近くの新幹線トンネル(写真F)は世紀の念願のJR新幹線、南側の武岡トンネル(写真G)は建部神社(大国主命・日本尊命を祭り武部大明神といわれる。)の真下を潜るようにして九州自動車縦貫道に接続して何れも重要な役割を演じているが建部神社の股の下を頻繁に車が通るのはなんとなく嫌な感じがする。私の若い頃は愛する聖地「武岡」に三箇所も穴を開けるなど考えられない事だった。
周囲に学校が出来たり団地やマンションが出来様などは考えられもしない。自然一杯の武岡だった。幼い頃の懐かしい思い出だ。然しこうして武岡の歴史を探って見ると鹿児島のほかの地区、例えば城山、多賀山、谷山に比べて歴史的な検索が非常に少ないと思う。武岡にも到る所に幾多の歴史があるのだ。埋もれないうちに検索しておくべきだと思う。武岡公園も桃岡公園も何時の間にか私有地になって昔の市立公園としての図面は市役所にも残っていない。非常に粗末に扱われて残念に思っている。

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