随筆・その他

恩 師 (6)
西区・武岡支部
(西橋内科)       西橋 弘成

 4月初め中学校の入学式があった。今度は伯父(母の兄)が連れていってくれた。広い講堂にクラス毎に並んだ。校長先生や来賓の方々の祝辞が終り、在校生の歓迎の言葉と新入生の答辞とがあって式は終った。
 それから、組毎に担任の先生に連れられて自分達の教室へ行った。私達の教室は2階建の正面の建物の1階で、一番端だった。根本先生といって東京生れの東京育ちで小柄な人だ。東京の人は「ヒ」と「シ」の使い分けが出来ないというが、本当にそうだった。彼は「ひばち」を「しばち」と言った。先生の話の後、講堂へ行って必要な教科書を買い、制服の寸法、靴・帽子の寸法取りがあった。皮靴、皮カバン、白線が1本入った黒い帽子、皆憧れの品物だ。これをつければいよいよ本当の中学生だと嬉しくなった。
 2週間後出来上がってきた品物を見て驚いた。皮製品はひとつもなく、靴もカバンも、人絹で作ってあり、制服はカーキ色、帽子はカーキ色の戦闘帽で、全て軍人色だ。皮・木綿など全て軍人用に廻され、一般には廻らないのだ。それでも新しい物を身につけると、中学生になったという気分が湧いてきて、頑張らねばと思うのだった。根本先生は小柄で顔も小さかったので、渾名は「根もチン」だった。彼は私達に化学と物理を教えられた。先生方の7割位には渾名がついていた。皆先輩がつけたものであった。
 私は先生を渾名で言うのは好きでなかったので、使わない事にしていた。私自身3歳の時、頭部左半分を煮えたぎる水飴の鍋に落ちこませて、1p大の円形の禿が残った。喧嘩をした時「台湾禿」と言われいやな思いをしていた。私は台北市で生まれた(台湾人ではない)。それで余計いやな思いをしたのだろう。
 ところで「弘法にも筆の誤り」という言葉があるが、私も一度失敗した。2年生の12月、中学の傍の東駅から球磨川沿いの鉄道を上流へ向かって4つ上った駅へ2年生全員が奉仕作業に行った事がある。列車の降り口の近くで級友5〜6人で喋っていた。何時の間にか担任の話になっていた。皆「根もチンが」と言っているので(自分だけ根本先生と使うのは、いい子ぶっていると思われはしないか)と考えて「ええ、根もチンがそぎゃん言うたとな」と言った。間もなく列車が停まった。ここで降りるのだ。出口の方を向くと、1m位の所に先生が立っておられた。(しまった)と思ったがもう遅かった。先生は「西橋、君は近頃横着になったね」と言われた。私は謝る言葉も出なかった。今後渾名は言うまいと決心した。
 奉仕作業は、湿田にコンクリート管を埋めて水捌けを良くし米の増産を計る仕事だった。
 根本先生には3年生まで担任してもらった。国語は1年生の時は漢文を“虎造”こと広澤先生に習った。「父母の恩は山よりも高く海よりも深し」等がでてきた。「少年老い易く学成り難し。一寸の光陰も軽んずべからず」を読んだ時は、このようにびりから付いて行く様では駄目だぞと思った。入学して3週間目に気管支炎で3週間休んだせいもあったろう。
 2年生になって国語は“伝ちゃん”こと永野伝蔵先生に習った。先生は教室に入って来て教室を見渡しておられたが、根本先生が書いて黒板の上に貼っておられた“苦さを乗りこえる”と言う言葉に目を止めて「これじゃ“苦にがさを乗りこえて”になる。苦くるしい事も乗り越えて、と言うのなら“苦さ”の間に“し”が必要である」と言われた。流石国語の先生だと思った。
 伝ちゃんは、50分授業のうち最後の10分を、物語の時間に当てて下さった。第1回目は“ジキルとハイド”だった。ジキル博士は二重人格を持てる人間を創ろうと研究して、ようやく出来上がった。
 誰かに使ってみたいと思ったが適当な人を見つけ出さないで、自分に使ってみる事にした。夜になって悪い性格になる薬を匙2〜3杯飲んで街へ出た。ハイド(悪い性格)は大通りへ出た。ハイドは真っ直ぐに歩いて行く。その時向う側から6歳位の女の子が歩いて来た。2人は段々近づいて行く。女の子は目でも悪いのかそのまま前へ進む。勿論ハイドは避けようとしない。2人はぶつかる。女の子は後へ倒れ、ハイドは女の子の身体を踏みつけて通り我が家へ帰る。近くの家の2階の窓からそれを見ていた少女がいて「キャー」と言って失神する。ハイドは家へ帰り別の液を匙3杯飲む。するとあの荒々しい気持ちも姿も消えて、いつもの穏やかなハイド博士に戻る。話はまだ続くが長くなるのでここらで止める。
 2回目は「宮本武蔵と小次郎」の話だった。関ヶ原の戦から始まって巌流島の決闘までを話して下さった。2年生相手なので、「愛・恋」などの言葉は別の言葉におきかえて話された。
 私は耳を欹てて聞いていた。このユーモアの有る先生が好きになった。先生を好きになればその教科の成績も上がる、といわれるが、私もそれを実体験した。
 1学期、素戔鳴尊(スサノオノミコト)が村人達のために、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治する文章を習った。尊は村人に命じて大きな桶8つに酒をなみなみと入れさせた。
 夕方になると大蛇は大きな音をたてて松林にやって来た。酒の匂いを嗅ぐと、娘を食べる前に酒だといわんばかりに桶の方へ寄って行った。8つの頭を桶につっこむと、うまそうに音を立てて飲みはじめた。飲み干すと首を立てて満足したように軽く振っていた。「赤かがちしたる目は、火が燃えるように見えた。」先生はここを「赤いほおずきのような目は−」と訳された。
 7月初め、期末試験があった。その中で、「次の言葉を訳せ」と5個の言葉がでていて、その1つに「赤かがち」とあった。私は、始め「赤いほおずきのような」と書いたが、「赤かがち」だから(のような)はいらないのだと気付いて「赤ほおずき」と書いた。1週間ばかり経った国語の時間、伝ちゃん先生は答案をかかえて教室へ入って来られた。「西橋という子はどの子か」と皆に聞かれた。皆は一斉に私の方を見た。私は小さく手を挙げた。「西橋一人が百点だった。いつも出来る人も『赤かがち』に引っかかったな。(のような)は要らないのだよ」とおっしゃった。いつも真ん中あたりを走っている自分が一人だけ百点がとれたのは、先生の話のおかげだ。一生懸命聞くようにしたのが授業にも役立ったのだなと思った。
 昭和20年4月、3年生になった。米国の日本本土上陸が近づいてきた。授業どころではない。特に南九州に上陸する可能性が高いという事で、丘のいたる所に横穴を掘り、軍需品の貯えに使った。軍人の睡眠所にしたりした。朝鮮人の兵隊が掘った土を、私達はモッコにのせて泥地に捨てる仕事だった。一級上の4年生は小倉の飛行機製作所に動員された。5年生は来年上級学校受験があるので、分散して授業を受けていたようだ。
 人吉市内の3年生は、根もチンの引率で、人吉市街に近い丘の作業だった。汽車通の人達は別なところで作業したようだ。根もチンは朝9時の朝礼と夕方5時の夕礼に出て来られるが、それ以外の時間はどこへおられるのか姿を見ない。
 6月末、一度皆で(50人位)昼食会をしようと有志3〜4人が言い出して、一人米一合持ってくる事になった。誰がどこで作るのだろうと思ったが、有志に任せておけば良いがと我々は考えて、いつもの通り土運びを続けた。午後12時になった。分隊長が「大休止」と叫んだ。兵隊達は穴掘りを止めて、昼食を始めた。柳行李を小さくしたような弁当箱であった。中味は米の御飯だろうかと思った。日本兵なら飯盒飯だろう。
 右手の高台の畑のところから世話係の級友が3人で「飯の準備が出来たで皆上がって来やい。畑の中の白壁の平家の家じゃっで」と叫んだ。(どげな御馳走の出来たろかい)と楽しみにして家を探して行った。回りは藁屋根の家ばかりなのですぐに分かった。玄関で手足を洗って上がると、床の間の前に、根もチンが坐っている。40歳位の女性が、係の級友とお茶を運んだり、茶碗を運んだりしている。家人は他には居なそうだ。(ここが根もチンの休憩所だったのか、生徒の土運びを見ていてもすることはないし、美人と茶でも飲みながら喋っていたが楽しいもんね。小柄な根もチンもやっぱり男だった)と感じた。我々には茶碗一杯の混ぜめしが渡った。人参・牛蒡・卵焼・蒟蒻・椎茸などが入っていて程よい味だった。これらの具は女性のサービスだろうか。世話係の級友のサービスだろうか。久し振りで御馳走を食べた気になった。
 作業は6月の雨の日も休みなく続けられた。
 8月14日夕方、作業が終ってから、先生が皆を集めておっしゃった。「明日は作業は休みだから出て来なくてよい。そのうち連絡網で連絡があるからそれに従いなさい。」
 8月15日、終戦になった事を2〜3日後に知った。本格的授業が始まったのは10月に入ってからだった。根もチンに対する私の評価は±0だった。
 昭和21年4月、4年生になった。担任も替わった。1年生の時英語を習った真砂先生だった。「ドンチ」という渾名がついていたが、何故か判らなかった。再び先生に英語を習った。発音に厳しい先生だった。Life Lineに書いたように昭和20年秋、叔母の家を追い出されて、電灯も水もトイレもない小屋に住んでいた。掃除しても板の透き間から入りこむ塵、それに栄養不足で私は両前腕に吹き出ものが多発し、黄色く化膿している。2度街の皮膚科へ行ったが、まだ抗生物質のない時代で、粘土を小麦粉で練ったような軟膏をもらったが一向に効き目がない。私の隣りの机を使っている“奥”君とは帰りが途中まで一緒なので、殆ど毎日一緒に帰っていたので、私は親友と思っていた彼に、或る日「きしゃなか(汚い)」と言われた。それで(治るまでは明日から学校を休む)と決めた。先生に一言話しておけばよかったのだが、余り腹が立っていたせいか誰にも何にも言わず帰った。午前中小屋で勉強し、午後は裏の川で魚とりをした。釣り具も網も持たないので、私なりに考えて、狭い水溜りに小魚を追いこんで、竹槍で刺して捕えた。弟妹の栄養物となった。7月初めの昼すぎ、真砂先生がひょっこり見えた。叔母の家を追い出されて小屋に住んでいると話してなかったので、ずい分あちこち訊ねてやっと辿りつかれたのだろうと思い申し訳なく思った。今回黙って1ヶ月半近く休んだ事を詫びて、休んだ経緯を話した。「2学期からは出てくるだろう。」「勿論出てきます。」と答えた。9月初めにはすっかり良くなった。遠い所を、わざわざ訊ねて来て下さった先生に感謝した。1年生の時気管支炎で3週間休んだ時は、学校と下宿の叔母の家は目と鼻の先なのに(根もチン)は訪ねて来なかった。
 2学期・3学期は何とか無事に過ごせた。4年生の11月、粗末な家だが電灯がついている借家が見つかって転居した。
 この年(昭和21年)の12月に父と姉がやっと満洲から引き揚げて来た。40歳を過ぎていた丸裸の男に、人吉あたりで職はなかった。
 とうとう魚の行商を始めた。引揚者には飛行場の土地を無償で5畝貸すというので、私(中学5年)と、女学校1年の妹と2人で、放課後5q歩いて、甘藷を植える畝作りに出かけた。2時間位耕して陽が沈む頃帰途についた。6月に畝作りが終ったので苗を4q離れた父の叔父の家に貰いに行った。7月中旬植え終った。8月中旬、私は夏風邪を引いた。怠さ、発熱・咳・たんが取れない。心配になって親戚の病院へ検査に行った。レントゲンを撮ってもらい、右上肺野の結核と分かった。米国のストマイが、闇で1g3,000円で20本打てば治るという事だったが、そんな金は逆立ちしても出て来ない。休学届を出して家で寝ているしか仕方ない。それも昼間は一人だ。食事もからいもだ。午後になると微熱が出て身体が怠くなる。何もしたくない。
 11月の初めの午後「御免下さい。」という男の人の声がする。家人は留守なので私は「ハイ」と小さな声で答えて、すぐ傍の障子を開けた。驚いた事に真砂先生だった。「西橋君どうかね。少しは良い方へ向いてるかね。早く元気になって学校へ出ておいで。」と言って下さった。「これは少しだが滋養物を摂って早く元気になりなさい。」と箱入りを下さった。私は有難くて泪が出そうであった。無口な先生であるが、私にとっては恩師の中の恩師である。
 昭和24年、昭和22年から2年間の休学を終えて復学出来る身体になった。3月末、学校へ行って真砂先生に会い復学したい旨を伝えた。丁度授業中で真砂先生以外は職員室は空であった。「さあどこへ入れようかね。」と先生がおっしゃった時、数学の桃崎先生が帰って来られた。「この子を2年生へ復学させねばならぬが、どこか空いてませんかね。」と真砂先生がおっしゃった。「うちへ入れましょう。」と桃崎先生が言って下さった。先生は2年5組の担任で、理系進学希望者のクラスだった。6〜8組は女子組、1〜3組は文系希望組だった。私は工学部進学希望だったので丁度よかった。
 お2人共停年後、真砂先生は郷里の広島市へ帰られ短大にお勤めになられたが、私が卒業して医局へ入局してから、広島市で学会があったので、手紙を差し上げて広島市でお会いする事が出来た。先生が御他界されるまで、年賀のやりとりなどした。
 桃崎先生は福岡県へお帰りになったので、同窓会名簿を見て年賀を出した。そして御他界されるまでお付き合いは続いた。この先生で有難かった事は、月謝250円を半額にする手続きをして下さった事である。日本育英会に借りるつもりで行ったが、すでに妹がもらっていたので、一家から2人は借りれぬという事で半額手続きをして下さったのだった。
 恩師に一番、二番とつけるのは失礼な事だが、私が今日あるのは春木先生のお蔭である。担任ではなかったが、英語や数学を習い、私が3年生になった時は就職係をしていて下さった。
 私は大学へ行くお金を貯める為、しばらく働かねばならなかった。春木先生のお蔭で就職試験は8つ程受けたが全部だめ。一番したくなかった小学校の教員も面接でだめだった。行商をしながら3日おきに春木先生の家へ寄って「何とかして下さい。」と頼んだ。先生の御努力で26年7月から小学校の代用教員になれた。学校は休みが多いので勉強するのに好都合だった。お蔭で11年後、大学へ入れた。今でも春木先生(ゴンチャン・停年後は和尚さんになる)のお蔭と思っている。
(おわり)



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