随筆・その他

子 年 に 際 し て 鼠 の 思 い 出
中央区・中央支部
(鮫島病院)       鮫島  潤

 今年は鼠年で私も何時の間にか84歳の歳男になったのだという事をスッカリ忘れていて医師会事務局からの電話で初めて思い出した次第である。子年にちなんで鼠の思い出を偲んでおきたい。
 戦前私の家は非常に古い石積みの高い壁に囲まれており、土間の台所には「つるべ」のついた深い井戸があって、その周囲に竈が並んでいた。祖父母を始め大所帯だったので米、野菜、調味料など食料品や雑貨を収納する倉庫もあったり、どちらかといえば台所全体が風通しのよい広い区域だった。然し大小様様な鼠(ドブネズミ、リュウキュウネズミ、ナンキンネズミ)たちがチョロチョロして屋根裏から床下まで走り回り猫と競争をしていた。時には子猫の訓練用に犠牲になった鼠が投げ出されたりしていたが、当時はべつに五月蝿いとも不潔だとも思わなかったから不思議だ。なんだか鼠も家族の一員だったらしい。鼠を縁起物と見ていた。
 後に私が鼠の研究をしたのも鼠の中で育った子供の頃の生活が役立っていたのだろう。昭和20年、戦争も末期になった頃、宮崎前九大名誉教授(寄生虫学教室)の指図で県下の「蚊」「蝿」「鼠」「ノミ」の分布を調べたことがある。当時戦局は益々厳しく南方の戦地から軍艦、輸送船、飛行機の往来が激しく熱帯病が、貨物にまぎれて鼠やノミから持ち込まれ、デング熱、マラリア、アメーバ赤痢、その他寄生虫などから様様な疫病が蔓延し出した。その頃厚生省と軍当局から宮崎教授に防疫対策の基礎研究を依頼されその手伝いを命ぜられた次第である。
 当時の営林署、鹿児島駅、鹿児島港中央市場に掛けて、石造りの大きな倉庫がずらりと並んでいた。中には軍用貨物が山程積まれては運びだされ運び込まれる毎日で、中には食料物資も一杯詰まり其処が鼠たちの繁殖場となっていた。周辺は軍の機密で一般人は近寄れなかったが我々は自由に出入り出来た。私たちは金網の「ネズミ捕り」を毎日10個ぐらい各地の倉庫に置いてきて、翌日それを集めて回るわけだ。面白いように取れたし一つの籠に2匹入っていることもあった。それを青酸ガスで瞬間的に屠殺して鼠の種類、性別、体重、身長を記録する。次いで鼠の毛をブラシで擦ってパラパラと落ちたノミ、シラミ、ダニを白紙に広げてルーペや顕微鏡でノミ等の種類を詳しく分類する。特にペストの元凶ケオピスノミを見つけるのが第一の目的だったのだ。当時横浜、神戸ではその指数も判っていたが鹿児島でも見つかったのは海港防疫上大きな意義があった。
 鼠の体外寄生虫(ノミ、シラミ、ダニ)の検索が終ると直ちに鼠を解剖し腸管内寄生虫を調べる。腸管を取り出し水に浮かべ全長を切り開くと大小様様な条虫、線虫、回虫等がウヨウヨと沸くように浮き出してくる。それを便漉し(篩(ふるい)に掛ける)して分類保存する。なかなか手間の掛かる嫌な仕事だった。然しマダガスカル条虫の本邦第一例を見つけたと教授に言われた時は本当に嬉しかった。一回の採集の分類が一週間位で終るとまた鼠籠を配置して回る。何回か繰り返して集まった鼠は凡そ1000匹は越えたと思う。中には猫でも恐れる獰猛な大型な鼠もいる。このような古老は幾度か修羅場を潜っているので背中の毛が摩り切れている。「セナハゲ」と呼んでいたがこの様な千軍万馬の奴こそ体内体外寄生虫も豊富で珍しい新種を見つけ易く、そんなのが網に掛かったのを喜ぶものだった。この頃、鼠の寄生虫分類の仕事は非常に重要で、同じ頃並行して行った蚊によるデング熱、マラリア熱などの研究と共に大学医学部図書館に残してある。何しろ物資の極端に不足していた戦時中のことゆえ紙はボロボロ、薄いガリ版刷りだった。戦時中の焼夷弾大空襲で鹿児島が全滅し印刷所も焼失したので宮崎教授がわざわざ自分で八代の焼け残った印刷所に運んで製本し、リュックに詰めて大混雑の列車をやっとの思いで鹿児島に運んで来られた時に敗戦の詔勅が降ったという涙の出る思い出がある。小さな別冊だが内容と質は絶大なものがあると万感の思いを込めて自負している。
 お前は鼠年だよと言われて60年前のことが昨日の様に思い出される。当時率先して頻繁な空襲の合い間を縫い、灯火管制の暗闇のもと、しかも非常な食糧不足のなかで昼夜兼行研究に励んでおられた今は亡き宮崎教授のご冥福を祈る次第である。戦前日本にも鼠の数も種類も甚だ多かった、現在の日本には鼠も蚊もノミも蝿もいない、食べ物の不足もない疫病感染の恐れも少ない、こんな世の中にすくすくと育つ若者たちは本当に幸福である。



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