我が家は私が2年生の11月末、人吉へ帰って来たのだが、2年生・3年生の学芸会へは出られなかった。4年生になって鏡先生が担任となられた。他のクラスは1月から学芸会の練習を始めていたが、私のクラスは、先生が何も言われない。私のクラスは何もしないのかな?と思った。
とうとう学芸会の日がやって来た。1番の番組から始まって、2番、3番……と進んで行く。10番目が始まった時だ、鏡先生が私達のところへ来て、「正岡、西橋こっちへ来なさい」と言われた。何だろうと思いながら先生のところへ行った。「次は君達に席書会をしてもらうから、今のが終って幕が閉まったら台に上がりなさい。習字の道具はすべてそろえてある。紙は長いもので漢字4文字書く。お手本はおいてある。幕が開いたら一度立って礼をしてから坐って書くのだ。急がないで良いから落ちついて書け。書きあがったら立って作品を父兄の方へ見せるのだ。幕が閉まったら降りて来なさい。」とおっしゃった。
幕が開いたので立って一礼し、坐って書き始めた。一度書いた事がある文字ばかりだったので、あわてる事はなかった。正岡君とほぼ同時に書き終ったので、一緒に立って父兄へ見せた。パラパラと拍手があった。
終って、正岡君が「書道塾に行っていてよかった」と言った。私は荒木で1年生になる前から教えてもらっていてよかったと思った。2月末、先生が習字をさせられたのは、学芸会に出す人を決めるためだったのだなと考えた。
先生の目が届かぬと「いじめ」が起る事がある。2学期、転勤族の子2人がターゲットになった。夕礼の始まるまで時間が長いと、2人のカバンを取り上げて次へ廻す。2人はカバンを取り返そうとカバンを持った子の方へ行く。と、カバンは他の子へ廻される。2人は、あっちへ行ったり、こっちへ来たり右往左往している。その姿が滑稽で皆笑ってみている。
11月だったか、3組の女子組の女先生が出産で休まれる事になった。その組を3つに分けて、私のクラスへも1グループが来る事になった。2人に対するいたずらはなお続いていた。2週間ばかり経った時、3人の女子が突然立ち上がって「あんた達はいつまでいじめをする気ね!私達は今から鏡先生のところへ行って、言うてくるからね。」と言うと廊下へ出ていった。暫くして3人は帰って来た。「2人に職員室へおいでと言われたよ。」と3人の女の子が言った。それを聞くと10数名の級友がどっと2人のところへ集まった。「山本、おいはせんじゃったでね、おいが名前は先生に言うなね。」「永松、おいは何もせんじゃったで先生に言うなね。」等口々に2人に訴えている。2人は「うん、うん」と首で肯くだけだ。先生は身体が大きいので、皆怖いのだ。やがて2人が帰って来た。「おいが名前は言わんかったろね。」と口々に尋ねている。間もなく先生が上がって来られた。教壇に立って「弱い者をいじめるのが最も卑怯なことだ。そういう事はすぐ止めなさい。」と言われた。皆、神妙に聞いていた。「分ったら解散。」と言われた。夫々自分のカバンを背負って校庭へ出た。2〜3人が早速永松君のところへ寄って「帰り道が一緒だから一緒に帰ろう。」と言っていた。鏡先生は余りおしゃべりする先生ではなかったが、先生が言われると皆よく言われた事を守った。
大人の世界では、先生の勤務時間等について何かがあったかも知れぬが、それらは子供の我々には関係の無い事であって、潮干狩り、学芸会と楽しい事を計画して下さったので、いい先生と思った。
5年生になった。どんな先生が受持ちかな?と思っていたら物静かな男の先生だった。授業も、物静かに進んでいった。習字が週1回はあった。「級をつけてあげる」と言われたので、皆はりきって練習した。或る日「日曜日の午前中は家に居るので、見てもらいたい人は私の家まで持って来てよいよ」と言われた。
我が家は8月(昭和16年)にはサハリンへ転居する事になっていたので、私は少しでも級を上げておこうと、出来るだけ行く事にした。私の家から5分という距離も便利だった。
私が行った日に級友と出会う事がなかった。7月末で、8級から6級へと上がった。このまま頑張れば5年生の末には初級位へとどくかもと思ったが、8月のサハリン転居が間近だった。先生は家では和服を召され正座して文字を書いておられた。まるで古武士だった。
後で聞いたところでは、先生は日本書道会の十傑の一人だそうだ。そして昭和17年4月には家族共々南方諸島のテニアンへ転居されるということだった。最初勢いの良かった日本軍は、昭和17年後半には次第に連合軍に押しやられつつあった。
昭和16年8月、既に女学校に入学していた姉を伯母の家に下宿させてもらい、我が家5人、叔母の家族4人、計9人でサハリンへ渡った。サハリンの西海岸にある不凍港の恵須取市に一昼夜かかって着いた。ここは製紙工場の街恵須取市だ。ここから馬橇で四里北上したところの塔路町が、私達の住む所だ。
塔路町は山手の石炭を掘削する山塔路と、海辺で選炭して石炭船に積む渓塔路があった人口は山塔路の方が断然多く、商店・診療所等もあった。
冬が長く寒さも厳しいため冬休みが1ヶ月間と長いため、夏休みが短かった。転校手続きに行って驚いたのは5年生と6年生とが複式学級である事だった。6年生が習っている時は5年生は自習になるので、教科の進みが遅く6年生になる時までに習っていない部分があった。此の萩先生の印象で残っているのは、冬、ダルマストーブが燃えている間は、ニシンの塩漬けを1匹持って来て、昼食時間にはストーブの上にのせて焼いて、おかずにされた事である。
音楽は6年生用の“鷲”を6年生と一緒に習っただけである。図工、体育、習字など一度も習わないのに、優、良、可で評価してある。複式学級をもって忙しかったのかも知れぬが、いい加減なものだと思った。
6年生になった。5年生の12月8日(昭和16年)太平洋戦争が始まった。人吉を出る時はまだ配給制度ではなかったが、サハリンに着いたら全てが配給制度であった。衣・食はもとより、教科書以外の学用品まで自由に手に入らなかった。6年生になって嬉しかった事は複式学級でなくなった事だ。然も若い男の先生でやる気満々にみえた。まだ顔面に、にきびが残った先生で、20代ではないかと思った。独身かどうかは見当がつかなかった。
5月末の或る日先生が「明日は習字をするから習字道具を持って来なさい。」と言われた。道具は皆そろえて買っていたらしく、おそろいの物を持っていた。「返す時は“級”をつけて返すから」と言われた。翌週の最初の国語の時間、先生は約束通りこの間の習字を持って来られた。「習字の場合、“級”の時は数字が小さい程上手となる。例えば8級より5級が上だ。然し“段”になれば逆になる。2段より4段が上だ。残念ながら“段”の人はいなかった。10級から初級になるまで早くても5年はかかる。初級から初段に上がるのに1〜2年はかかる。」
「さて、数字の大きい級から返していこう。」と言われ、両手に1枚ずつの習字を下げて、皆の方へ見せられた。2枚とも10級であった。10級が何枚かでて次は9級がでた。そして8級が数枚あった。「あと2枚残っている。さて何級でしょう。」と先生が言われた。私は自分の物をまだ受け取っていないので、1枚は自分の物と分ったが、あとの1枚は誰だろう。私は人吉で“6級”を貰っていたので6級が貰えたかなと考えた。先生は、両手に下げた習字を少し高めに前の方へ出された。1枚は予想どおり私のもので、もう1枚は女子で学習がよく出来る加藤さんのものだった。後の席から2〜3人の男子が「よかぞ、よかぞ、もっとくっつけろ。」と叫んだ。
昨年8月人吉を出てから今まで約1年間、習字の練習をしていないのだから、腕が落ちたのだろうと思った。この次は練習して1級でもあげようと決心した。
6月の初め、内地は梅雨で蛙がうるさく鳴いている頃だが、ここでは濃霧の発生があるだけで、蛙の声は聞かなかった。第一、田圃がなかった。この頃先生が「そろそろ上級学校の受験勉強も始めなくてはならないから、今日家に帰ったらお家うちの人とよく相談して、上級学校へ進む人は、明日放課後、教室に残って待っていなさい。」と言われた。
翌日、放課後、何人かが帰った後も、1人減り2人減り、結局残ったのは、私と従兄と、磯辺君と、女子の加藤さんの4人だった。
先生が教室へいらした。「どんなふうにやろうかね。」と先生がおっしゃるが、我々にすぐいい知恵が出てくるはずがない。暫くして中学の入学問題集を買って解くのはどうかと思いついたので、先生にそのように話してみると、「それはいいかも知れないね。早速本を当ってみよう。」と言われた。
6月が終わり7月になったが、なかなか受験勉強の話が先生から出ない。とうとう1学期は受験勉強なしだった。或いは一部の父兄から、「一部の生徒のためにだけ勉強させるのはけしからん。」と文句でも出たのかもしれぬ。
習字も第2回目を楽しみに待っていたが、とうとう1回きりで終った。炭坑は頭仕事より、力仕事の方が多くいるので、高等科を出ればそれでよいのだろう。
8月中ば、まる1年過ごした塔路町に別れを告げて、我々3人は石炭船に乗って内地へ向かった。
やる気のある先生と思ったが、何だか尻切れ蜻蛉に終ったようで残念だった。
(つづく)

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