=== 新春随筆 ===
サ ブ プ ラ イ ム ロ ー ン 雑 感 |
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アメリカの信用力の低い個人向け住宅融資(サブプライムローン)の焦げ付きさわぎで米主要企業の業績が減益となるらしく、これは5年半振りのことだと日経新聞は報じていた。
このようにサブプライム問題で市場に動揺が広がったのは8月上旬。ECB(欧州中央銀行)の資金供給、FRB(米連邦準備理事会)の利下げで市場はひとまず落ち着いたとはいうものの、金融市場では短期金利の高止まりなど混乱の余波は今も続いているという。
このようにいまや世界の中央銀行が対応に追われている。
わが国も日本銀行が利上げ間近といわれながら政策金利を上げられない状況にあるが、金融政策の立案や実行を担う日本銀行はどのような歴史を歩んできたのであろうか。
中央銀行の発祥の地は欧州だといわれている。1668年にまずスウェーデンで現在も続くリスクバンクが誕生しており、1694年にはイングランド銀行がイギリスで発足しているがこれは対フランス戦争費用を調達するためだったといわれている。こうした中央銀行はやがて独占的な紙幣を発行する権限を持つようになるのであるが、日本では政府のほか国立銀行条例により民間が設立した「国立銀行」が紙幣を発行していたのである。1877年に西南戦争が起きるとその戦費調達のため紙幣が大量発行され当然のことながらインフレが起きてしまった。
信用力の乏しい紙幣の乱発がこのインフレの原因だったため、当時の大蔵卿(オウクラキョウ)松方正義の提唱で日本銀行が1882年に発足している。そして紙幣発行業務は国立銀行から日本銀行に移っていったのである。
FRBが設立されたのは1913年であって日本銀行が設立された当時はまだ存在していなかったことになる。
日本は欧州を参考にするしかなかったのだが着目したのはベルギー国立銀行だった。
「日本銀行史」(吉野俊彦著)によると、もともとフランスの制度を研究するつもりだったが欧州出張に出かけた松方正義は、仏の大蔵大臣から推薦されたのはベルギーの制度だった。「創立が古いフランス銀行は、組織や執務のやり方が因習に従っているが、ベルギー国立銀行は設立が新しく組織や秩序が整然としている」と諭されたという。
さて紙幣発行を独占した日本銀行は、その権限の大きさから「ローマ法王庁」と総裁は「ローマ法王」と呼ばれる存在になっていった。「日本銀行史」(吉野俊彦著)
日本銀行は政府と連携しながらも意志決定は独立を保っていた。しかし第二次世界大戦中は政府に従い戦争を資金面で支えるしかなかった。
再び日本銀行に強い勢いが戻ったのは戦後のことである。中央銀行の役割を重視するGHQ(連合国軍総司令部)の後ろ盾があったからである。特にワンマンとして一世を風靡した一万田尚登日本銀行総裁。戦後の資金不足の中で復興資金の供給に影響力を持った。
GHQの占領が終わり、一万田総裁が辞任すると、日本銀行の勢いも徐々に失われていった。やがて大蔵省(現財務局)銀行局日銀課と揶揄(ヤユ)されるほど大蔵省の影響力が強まっていった。ところが強すぎる大蔵省に批判が集まり、金融監督庁(現金融庁)の分離独立など権限が縮小されることになる。
1998年には改正日銀法が施行されて、日本銀行の独立性が高まり、一方で国会への報告書の提出など説明責任も増した。このサブプライム問題も含め金融行政の舵取りが難しくなる中、日本銀行の責任は設立当初と変らず重い存在ではあるわけである。
日米欧など7ヶ国(G7)は、米ワシントンで財務相、中央銀行総裁会議が予定されているが、アメリカの信用力の低い個人向け住宅ローン(サブプライムローン)問題に端を発した金融市場の混乱後はじめての会議では、市場の不安解消へ各国が協調を確認する見通しだという。そして世界経済に対する従来の楽観論は修正され、混乱が実態経済に及ぼす影響を注視する姿勢が示されるものと予想される。
(医療法人 玉水会 前事務長)10月15日
| 編集委員会註:著者 栗毛野 隆様は平成19年11月27日にご逝去されました。 |

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