社会の変革、発展、個人的な成功や健康、幸福感等全てはその社会を構成する国民の発想に大分左右されるようである。発想の違いは国と国の間でも存在し、各国の文化、社会の安定、国民の教育等に反映されている。例えばイスラム国家では通常、程度の違いはあるが女性の社会進出、識字率など学校教育を受けさせる必要は無いとの発想のため低いようである。最近医師と患者の間で時々医療行為の結果について見解の相違が表面化するのも医療にも不確実な事や限界があるという発想が国民の間に乏しいせいではないだろうか。完全という現象は人間社会では決して存在しない。希望と夢は持って構わないが過大で100%の成功という事は全ての面では期待できない。双方が50%の満足で50+50=100%で良いとの考えが合理的であろう。この考え方は理想的な発想の転換である。社会の高齢化現象も山登りみたいなものだ。あがれば視野は益々広がりすばらしい景色が広がっている。従って多くの賢人(けんじん)が増えてゆくと解釈してその知恵で社会を良くして行くと考えれば希望も湧いてくる。忘年会は望年会、誕生日は親に感謝する日、そしてコップの水を半分空とみるか半分入っているとみるか…、お金、健康も然り…で社会も住みよいと感じるかも知れない。
最近スイス、スウェーデン、英国等に住んでいるある雑誌の編集者(Tyler Brl)が仕事の相手としてのドイツ、スウェーデン、米国、日本、イタリア等の国民性と接遇の両面で分析(場所、親密さ、待合室の雰囲気、話のすすめ方、ミーティングの仕方、コーヒーやお茶のサービスの仕方、別れる際の挨拶等)してランク付けをしているが日本の女性が受付、接遇で断然トップだと思いきやあに計らん、特に接待に関する発想の違いからドイツがトップ(10点満点で9点)次いで日本とイタリアが7点、スウェーデン6.5点、米国4.0点だとの事である。すなわちドイツ人の接遇は無駄が少なく、要領も良く、案内係も機敏でテーブルの上には二種類の水、リンゴジュース、チョコレート等準備され、話を中断しないように携帯電話は近くにおかず(この点がどうやら日本より上位になった理由のようである)帰りにはホストはエレベーターの所まで案内する等色々とこまかい気遣いをしてくれた事が評価されたようである。アメリカの場合訪問先の会社の受付の女性は自分中心に動きまわりコーヒー等のサービスも殆んどしないとの事で発想の相違であろうが個人主義第一のアメリカ人らしい行動パターンである。個人の行動においても民主主義は多数の幸福という事もさる事ながら少数の人々の権利保護の為の制度でもあるとの表現であろう。日米人の発想には面白い程違いがある。第一に思考の過程で日本人は調和と情緒に重点をおき米国人は論理を好み対決を辞さない傾向がある。その他表現の過程で曖昧と含蓄(日本人)、明確で行動的(米国人。イエスとノーがはっきりしている)、日常生活の面で会社人間(日本人)と夫婦が原点(米国人)、教育の面では短所をなおす事(日本人)と長所を伸ばす事(米国人)、職場では終身雇用を好む(日本人)と向上を目指して転職をいとわない(米国人)傾向、交渉事では防衛的と攻撃的、契約では善意と誠意を前提の日本人とビジネス第一のアメリカ人(大リーグの契約のプロセスをみるとよく分かる)等々の違いがあると言われている。言葉の点でも「ゴマすり」は英語では「リンゴみがきapple polishing」、東西南北は北南東西、左右は右左の順で言う(英訳の際注意)。その他「玉にきず」は「軟膏の中のハエ A fly in the ointment」、等々発想を変えなければ理解できない。
医学の分野でもノーベル賞の受賞者の多くは研究に行き詰ると発想を変えて(多くは他の研究者のアドバイスで)成功している。最近では京都大学再生医科学研究所の山中伸教授らや米国ウィスコンシン大学のJunying Yu博士らによって報告された(アメリカ現地の新聞では、肩を並べて、又は競り合ってneck−and−neckの発表と報道している)受精卵やクローン胚(いわゆるES細胞)からではなく人の皮膚から万能細胞を作る研究も発想の転換から生まれたとの事である。アメリカではES細胞による再生医療の研究にはブッシュ大統領が反対し国の予算を配分しなかった。又あの有名なWatson−Crick(二人でノーベル賞受賞)によるDNAの二重螺旋構造もX-ray上の格子状配列 X-ray crystallographyは発見したもののこの複雑な構造をどのように表現して発表したらよいか迷っている内にCrickの奥さんで美術家のOdile Crickさん(2007年10月86歳で死去)が横で眺めていてこの研究には全く素人だが美術家としての見地から発想を変えて現在の分り易いDNAの二重螺旋構造の原型を描写し、偉大な成果を全世界に知らしめた。
ここで日本の世相、政治、経済、国民の幸福度等に目を向けるとどうであろうか。なかんずく医療に関しては大いに発想の転換が必要であろう。かつて名君島津斉彬公が「國の政治というものは衣、食、病気に窮する國民が無きに至ってはじめて完全と言えるものだ」と述べられたという事をある本で読んだ事がある。公は又「民を富まし、國を富ます事を1日も忘れてはならない」とも言われたとの事である。残念ながら斉彬公はわずか7年の藩主在任で享年50歳で亡くなられたが我が国の政治家の皆さんも各業界の事情や都合もあるかも知れないが国の施策や予算のpriority(優先順位)を国民の健康に向けないと、例えば立派な舗装道路の上を猿、鹿、犬、猫、たぬき、カラス、そしてその後を老人や病気の人間が歩いている社会になるかも知れない。そうならないように我々医療人も努力し、政府もあと押しをして夢と希望、そして繁栄と健康を享受する社会を実現するようにしたい。これらの事は政府が国民に対して寛容と共感をもって発想を転換すれば充分可能である。大きな希望を持って新年を迎えたい。

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