=== 新春随筆 ===
も う 一 つ の「 薮 入 り 」 |
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日本の正月にはさまざまな行事・しきたりがあった。「薮(やぶ)入り」もそのひとつである。1月15日前後に、奉公人が休みをもらって実家に帰ったり芝居見物に出かけることを許された、江戸時代の商家の慣行である。週休2日が当たり前となった現代からは想像もつかないのだが、当時、とりわけ奉公先に住み込みで働く人々の日常は文字通り年中無休、まことに過酷なものだった。盆と正月ぐらいは解放してやろうという、せめてもの思いやりであったろう。
なぜ、奉公人の安息日を「薮入り」と呼ぶのか、実は諸説あって確かなことはわからないのだが、昨年の夏、思いもかけず、思いもかけぬ場所で、私はこの「薮入り」という言葉に、旅行先の箱根で出会った。
泊まった芦ノ湖沿いのホテルから歩いて数分のところに箱根関所跡があった。数年がかりの発掘調査が終わり、資料館もリニューアル・オープンしたというので、出かけてみた。
箱根の関は全国五十数か所あったとされる関所の中で、規模の大きさと取り締まりの厳重なことで知られている。ここはとりわけ「入り鉄砲と出女」に対してきびしかった。「入り鉄砲」(江戸への武器類の持ち込み)には関東近辺どの関所も神経をとがらせたが、箱根はそれにもまして「出女」、つまり江戸を離れる女性への監視がきびしかった。本来は江戸城下に強制的に住まわせた藩主の妻女たちが国許に脱出するのを防ぐためとされるが、僧侶や下男に変装して監視をごまかそうとする者が絶えず、セックスチェック専門の女性が何人も常駐していた。
もとより関所破りは大罪である。捕まれば死刑、それも磔(はりつけ)獄門という極刑が待っていた。女といえども容赦はしなかった。
関所跡近くの旧箱根街道から少しはずれたところに「お玉が池」というのがある。故郷恋しさのあまり、奉公先を無断で抜け出した下働きの少女お玉が、関所を避けて裏山に入りこんだところをたちまち捕まり、死刑に処せられた。おきてとはいえ、あまりにも哀れ、と役人たちが、かたわらの池のほとりに葬ってやった。池は「お玉が池」と呼ばれるようになった、とある。
こうした見せしめにもかかわらず、その後も関所破りは相当な数にのぼったらしいのだが、奇妙なことに、実際に逮捕・処刑されたのは数年に一回程度だった。お玉のように、簡単に捕まってしまうような女たちは「薮入り」、文字通り道に迷ってやぶに入りこんでしまった、ということにしてその場で不問にしたせいだという。
さて、こっちの「薮入り」が、奉公人の正月休みの由来と直接関係があるとはとうてい思えないのだが、万事がきゅうくつで息苦しかったであろう封建の時代にも、実はこうした、いささかの知恵というか、本来の人間味が生きつづけていた、という点では、どこか共通するところがあり、ホッとするのである。

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