=== 新春随筆 ===

八 甲 田 山 遭 難 記

中央区・中央支部
(鮫島病院) 

     鮫島  潤
 機会あって青森の八甲田山に登った。道端の白樺の幹に白い文様が美しい、数年前モスクワでシベリア鉄道の沿線の白樺林で眺めた時ソウザとゴンザの苦難の旅を偲んだ事を思い出す。ロープウェーで登った頂上から町や陸奥湾を見渡して素晴らしい景色だった。然しその時10月末、既に雪が降っていて折角の景色が雪雲に遮られて見えなくなったのは残念だった。バスは更に山奥に進む、周囲のカエデ、ウルシ、ナナカマドの朱、ブナやナラの黄色、全山、錦織り成す絨毯を敷き詰めたような荘厳な林相だった。原生林なのにこの色彩配色の妙に自然の造形の深さをしみじみと味わった。陸奥の晩秋、スケールの大きさ、色彩の強烈さとも圧巻だった。
 私はこの時100年前(明治35年)この山の中で青森連隊の200名近い部隊が全滅するという近代に希なる大惨事が起こった事を思い出して何となく胸が詰まる思いがした。その史実を記してみたい。
 私たちは中学生時代から軍事教練と言う教科があってその時歌ったのが軍歌である。「雪の進軍」と言うのは日清戦争の時、冬季厳寒時期の実戦の模様を歌ったもので兵の苦労が偲ばれる。後述する青森部隊遭難の状況経過がそのまま表現されているようなので一部を抜粋する。

雪 の 進 軍
 前 略
  雪の進軍氷を踏んで
    何処が川やら道さえ知れず
  馬は倒れる棄ててもおけず
    此処は何処ぞ皆敵の国
  ままよ大胆一服やれば
    頼み少なや煙草が二本

  焼かぬ干物に半煮え飯に
    なまじ命のあるそのうちは
  堪え切れない寒さの焚き火
    煙い筈だよ生木が煙る
  渋い顔して功名話
    「すい」と言うのは梅干一つ
 
  着の身着のまま気楽な臥所(ふしど)
    背嚢枕に外套かぶりや
  背中の温みで雪解けかかる
    夜具の黍殻(きびから)シッポリ濡れて
  結びかねたる露営の夢を
    月は冷たく顔覗き込む
以下略 

 日清戦争の後、日本はロシアの東進に脅かされていた。ロシアは陸奥湾を封鎖する、八戸から上陸するとの想定を立て青森連隊と弘前連隊で八甲田山を挟んで日本海側と太平洋側の連絡のため軍隊移動の冬季雪中訓練をすることになった。明治35年1月23日、当日零下41度、師団は同時に行動を起こした。綿密な計画を立てた弘前部隊は全員成功したが、青森部隊は210人中199人が凍死すると言う世界最大規模の冬山遭難事件になったのである。その経過は気象台職員で冬山に詳しい作家、新田次郎の「八甲田山死の彷徨」に発表され映画化もされて注目を集めた。私も若い頃これを読んで感激した一人である。
 遭難の経過は述べれば際限はない。然し左記の軍歌に表現されているから省略するとしてここに遭難の原因を探りたい。
※準備の不足…冬山を非常に軽く見ていた。指揮官も急に変更されて雪山の知識が不足のまま命令受領されていた。兵も山の生活に慣れた炭焼き、マタギより深雪に慣れない農村生活者が多かった。将校と兵で服装にも差が大きく将校は毛糸の軍帽、ネルの軍服、長靴を装備していたが下士官、兵は毛糸の外套、フェルトの軍帽、短靴でとても厳寒の装備とは言えなかった。中には替えの靴下を用意したり、辛子を塗り込んだりしていた兵もいたと言う。全体的に冬山を非常に軽く見てまるで温泉にでも行くような気分の兵もいた。
※気象観測が不十分でその異常な大寒波を予知出来なかった。ラッパ卒のラッパが凍って唇にこびりついた。軍医が注射しようにも体が凍って硬くなり注射針が折れたと言う。コンパスも凍りつき役に立たない。零下41度に風速20m積雪6mで体感温度は想像出来ない。(この記録は現在でも破られていない)兵隊達は骨まで凍る寒さの中では集団妄想に陥り、登山者によく言われるホワイトアウト(吹雪で上下左右が分からなくなる)、リングワンデルング(直進するつもりが左右にグルグル廻ってしまう)、ゴルジュ(切立った崖に迷い込む)などで同じ集団がお互いに逢ったり離れたりしながら大声で叫び出す、裸になって走る、激流に飛び込んで青森まで帰ろうとする等で生存者は益々減少していった。
※指揮系統の乱れ…雪中行軍の指揮官は教導学校出身の神成大尉であったが同じ将校でも士官学校出身とは差があった。これは近年でも幹部候補生上がりと士官学校出身の将校とに差があったようなものだ。そのうえ指揮官神成大尉の他に随員として上官の山口少佐がいたが必要も無く権限も無いのに部隊の指揮に口を出して大いに統率を乱した。
  末期になって指揮系統が支離滅裂になったとき神成大尉が「天は吾を見捨て賜いしか」と唱え、全軍に解散命令を出し各自青森に帰れと達示したところ、兵達は大いに失望し益々混乱した。指揮官から見捨てられた兵は哀れな経過を辿る例は近代戦でもまま見られることである。
※生き残った後藤伍長は青森連隊に救援を依頼すべく命令されたが無意識のうちに銃を支えに立ったままで雪に埋もれて発見された。これが切っ掛けとなって部隊の遭難が確定されたと言う。彼の銅像は戦時中の供出令にもかかわらず現在でも毅然と立っている。他の全員の遺体収容は雪に慣れたアイヌの人々の応援を得て6月まで掛かった。生き延びた11人も酷い凍傷の為手足指を切断されている。
※軍隊の無策の為戦時でも無いのに無念の死を遂げた将兵の墓も厳然とした軍の掟で将校、下士、兵の序列で場所も墓石の規模も差がついているのは釈然としない。
 今回私が見聞した所では彼らの遭難した場所は一部は青森市内に含まれ現場から青森の町が見下ろされると言う極めて狭い場所だ。青森の街を見下ろされる今では信じられない程近くて狭い範囲だったのだ。
 勿論気象衛星はない、無線機も無い携帯電話もない暖房も無い事情ながら大嵐の積雪の中で彷徨いながら次々に死んで行った将兵の無念は如何ばかりだったろうか、生き残った山口少佐は責任をとってピストル自殺を遂げたと言う。彼らは靖国神社にも祭られず、支給金もあまりに少なくて遺族から不満が出て後に追加されたという。現在では考えられない事だ。
 軍隊と言う枠に嵌め込まれた彼らの人生を思い、現代社会でも有能な上司と無能な上司に仕える部下達に同じ様な運命があるのだと言う事を考えると感慨無量の思いで紅葉の山を降りた。




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