=== 新春随筆 ===
石見銀山における職業病対策
− 今 年 計 画 し た い こ と − |
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「一年の計は元旦にあり」だが、先輩の「年寄は身の程をよく考えて出来るだけ不義理をするように−」とのアドバイスに従い、今年も健康には留意し、いくつか課題などを決めてマイペースで過ごしてみたいと思っている。無論、決めた事柄がどの程度出来るかは保証の限りではないが−。
今年、是非実現したいと思っていることは、昨年、わが国で初めて産業遺産として世界遺産登録された「石見銀山遺跡とその文化的景観」(島根県大田市)の現場を、この眼で確かめることである。
鉱山労働に伴う職業病
周知のごとく、鉱山労働に伴い、労働災害の他じん肺を始め種々の職業病が発生する。しかし、その比較的詳しい記述は、アグリコラ(Georgius Agricola)の「鉱物について」(1556)やパラケルスス(Philippus A. Paracelsus)の「鉱山病について」(1567)の頃からである。
わが国では、これから約3世紀遅れて、荒谷忠兵衛の「金堀病体書」(大葛金山)(1826)のじん肺の記録や小林含章の「生野銀山孝義伝」(1849)の銀山鉱夫の短命記録が代表的なものとされている。しかし、私は不勉強で、石見銀山に関心を持つまで、これらの書物の発行とほぼ同時代の今から150年前に、石見銀山の労働に関連して職業病の発生と対策について興味ある冊子「濟生卑言」(1858)が出されていたことに気付かなかった。
石見銀山の開発とその意義
石見銀山は、記録によると、対馬での銀山開鉱(673)より約900年後の1526年に博多の豪商神谷寿禎により本格的な採掘・製錬が開始され、1923年の休山までの約400年間に亘り採掘されてきた世界有数の鉱山である。
戦国時代以後、戦国武将による争奪が繰り返されたが、徳川家康が天下を掌握した後は、石見銀山奉行を任じて管理して栄えたという。
ところで、ポルトガル船の種子島への漂着(鉄砲伝来、1543)、フランシスコ・ザビエルの鹿児島渡来(キリスト教伝来、1549)以後に展開されたポルトガルのアジア貿易では、日本の銀を中心にした三角貿易(中国で安い生糸を購入し、これを日本で銀と交換、この銀をもとに中国産の絹織物や陶磁器、東南アジアの香辛料を買い付け、ヨーロッパに持ち帰り莫大な利益を上げる)が行われ、石見銀山が極めて重要な役割を果したようである。
石見銀山における職業病対策
石見銀山における労働等の状態に関しては、若干の記録が残されているが、それらの中で特に興味深いのは、既述の宮太柱(誠之)による「濟生卑言」である。
三浦豊彦著「労働と健康の歴史 第1巻」や吉野貞尚・吉野章司著「じん肺−歴史と医学−」などによると、備中(岡山)笠岡の医師宮太柱が、弱冠28歳の折に石見の代官屋代増之助に招かれ、2年余掛けて鉱山病の予防と治療の調査研究を行い、この報告書をまとめた。彼は父親から西洋医学を習得し、外国の鉱山病に関する知識もあったようである。
調査報告書では、@窒素瓦斯、A炭酸瓦斯、B水素瓦斯、C鉱毒、D砒毒、E石毒、F戴光不足、G摂生失度の8項目が取り上げられ、「薬蒸気法」と「福面」(フクメン)などを開発して実際に使用し、効果があったという。前者は、鉱山では地中深く掘り進むと酸欠、粉じん、灯りとして使うカンテラからの油煙のため「けだえ」(気絶え)の状態になるので、唐箕を改良した通気管を開発して風とともに「薬気」を送り込んだもの、後者は、防塵マスクで、鉄製の枠に薄絹を縫い付け、これに柿の渋を塗って乾かし、面内に梅肉を挿み込み、両端に紐をつけて耳に掛けるもので、梅肉功験と題して梅肉の有効性を記述しているという。なお、この「福面」は、わが国における防塵マスクの走りとされている。
ところで、随分前に島根の友人から「梅紫蘇巻」を土産に貰ったことがあった。その時は変わった食べ物だという程度で大して気に留めていなかった。しかし、これは、宮太柱が考案した「福面」に使われた梅の効用を知った鉱夫の妻たちが、夫等のために弁当のおかずとしてつくるようになったのが始まりという。
石見銀山の遺跡見学の折には、苛酷な労働環境で働いていた鉱夫たちやその妻たちに思いを馳せ、梅紫蘇巻を再度じっくり味わってみたいものである。
終わりに
さて、1858年といえば、ルドルフ・ウィルヒョーが「細胞病理学」を著し、わが国では安政の大獄があり、日米(蘭露英仏)修好通商条約締結により各国から不平等な通商が強要されていた年である。また、わが国の近代化に重要な役割を果した「集成館事業」を推進し、将軍家の要望により篤姫を養女にして家定に輿入れされた島津斉彬が50歳の若さで急逝した年にも当るので、関連した各種事業なども企画されたことであろう。
私は、予てから集成館事業など薩摩藩の殖産事業に関連した産業保健や環境保健の実態に関心を持って資料の収集などに努めてきたが、残念ながら、遅々として進んでいない。
斉彬没後150年に当る今年は、この課題について、少しでも前進が図れるように努力したいものである。

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