=== 新春随筆 ===

東 開 町 の 激 変

(S35.4.18生)
南区・谷山支部
(中野脳神経外科)

     中野 英樹
 皆様 新年明けましておめでとうございます。
 毎年の事ながら、慌しかった年の瀬を越えて新年を迎えるとどこか改まった気持ちになります。去年の出来事を思い出しては少し反省し、今年こそはと決意するものの実際に実行できるのが少ないのは意志の弱い私の哀しさです。
 昨年は私の周辺でも大きな変化がありました。イオンショッピングセンターが出来ました。鹿児島県内で最大の売り場面積をもち、従業員だけで2,500人以上、年間集客数も1,000万人以上をも見込んでいるとの事です。こんな巨大なスーパーがすぐ近所にやってきました。なにやら山形屋と三越までもがタッグを組んで天文館からお客を奪われまいとサービス競争になっているのだそうです。
 昨今、鹿児島南部地区の再開発が盛んに行われており、とくに谷山周辺の地域では郊外型の大型店が次々に開店しています。家電量販店、日用雑貨の量販店、書籍販売、薬局やスーパー、自動車関連の販売店など様々な業種が新規に出現しております。それらの店舗や事務所、ビルなどの進出に伴い、街の様子がどんどん変わってきています。
 10年前に私が東開町に開院したとき街の景観は、工場の墓場のような荒廃した印象でした。廃業した製材所の影響で空き地も多く、稼動している工場よりも朽ち果てた工場の方が多いという有り様でした。もともと東開町は製材団地組合の造成工事によって埋め立てられ開発された地区です。県内の木材関連事業所の組合が県と国から協力を得て造成を行い昭和42年に完成しています。最盛期には百を超える木材関連の事業所が盛業しており、製材所だけでなく木工家具店や住宅販売、合板加工や木材関連製品の直売所などが林立する県内唯一の木材産業センターでした。私が子供の頃は父に連れられて幾多の工場や事務所を訪れたものでした。しかし、オイルショックや産業構造の変化、住宅構造の変化また外国産木材の輸入量増大など多様な要因が重なって昭和50年頃から木材産業は衰退してゆきました。さらに後継者不足も加わり製材所は徐々に廃業してゆき、東開町はどんどんさびれた町になってしまったのでした。10年前、平成10年頃の東開町にはかつての賑わいはなく、夜になると野犬も出てきてそれこそゴーストタウンの様でした。友人には「こんなところで開業しても大丈夫なのか?」と心配や同情もされるような始末でした。
 当時の私にとっては「泣いても笑っても、とにかくここしかない」という状況でしたから選択の余地などなかったのでしたが、内心では不安な気持ちを押し殺していたものでした。
 そのころの状況と言えば道路が一応舗装はされているものの、あちこちに亀裂が入っていました。走っている車も朝夕は工場に勤務する従業員の方で通勤退社の乗用車が通るのですが、昼間は荷物を積んだトラックしか走っておらず、夜には人や車の往来はなくなり静かで寂しいところでした。駐車場の草むらにはウサギがいたり、夕方暗くなってから看護師さんが帰るとき、野犬に吠えられたりする恐いところでもありました。保健所に依頼して野犬を駆除してもらう一幕もありました。
 それが今や状況は大きく変化しています。
 道路は整備され、アスファルトのヒビはなくなりセンターラインも綺麗に塗ってあります。
 廃虚の工場は少なくなり、近代的な事務所やビルが立ち並ぶようになってきました。おかげで昼間にも乗用車が通るようになり、夜間も明るく賑やかになってきました。いまでは看護師さんが犬に吠えられることもありません。
 十年一昔とは言うものの本当に大きく変わったものだと思います。変わったのは街の景色だけではありません。時間の流れと共に自分自身や医院の状況も変化してきます。職員の顔ぶれや人数、家族の数や構成などもどんどん変化しました。仕事面でも電子カルテの登場や画像診断の機器の進歩など、10年間の変化は目まぐるしいものでした。便利になってゆく反面、ハードやソフトのメンテナンスなど煩雑な作業も出てきます。こういった変化は人々が生活してゆく中で常に起こり続けてゆくもので避けて通れないものなのでしょう。また変化と言えば何より医療行政も猫の目のようにコロコロと変わっていって2年ごとの診療報酬改定の度にゾッとしては将来を悲観せずにはおれません。
 このように見渡してみると、自分を取り巻く周囲の環境だけでなく、自分自身や自分たちの組織にもさまざまな変化が起こっています。医療業界を取り巻く状況を考えれば、これから医者が楽になる方向への変化は到底期待できません。むしろ厳しくなる方向への変化が殆どであろうと思われます。どんなに状況が変化してもそれに適応しながら自分たちの方も周囲の変化を更に上回るような上手な変化を成し遂げて生き残ってゆかねばなりません。少ない知恵を絞りながら医業を続けてゆこうと思います。
 しかし、反対にどんなに時代の変化が続いても変わらないものもあるはずです。
 それは人々の愛とか心、情や誠などの人間が本来持っている内なるものがそうでしょう。
 また、人々の生活があるかぎり健康や生命が大切にされ守られなければならない事も言うまでもありません。東開町には住宅地がないので住人は少ないのですが、人々の往来が増えて昼間の人口が増えればそこには必ず人の暮らしや営みがあり怪我や病気も出てきます。
 医者としてそういった場面で少しでも微力を発揮できれば社会のお役にも立ちながら仕事ができていると自己満足もできます。
 今年は変化してゆく街を眺めながら自分たちも生き残りをかけて更なる変化を決意し、そしてそれを実行する年にしたいものです。






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