随筆・その他

     恩    師    (3)

西区・武岡支部
    (西橋内科) 西橋 弘成

 私は昭和22年、旧制中学5年生の8月、肺結核を発症し2年間休学した。米国のSMストマイが闇で1グラム3,000円で、少なくとも20グラム打てば治ると言う話を聞いたが、我が家の1ヶ月の生活費が3,000円で、とうてい私には手の出る物ではなかった。週3回Ca剤の静注に行くのがやっとだった。
 11月の或る日、いつものように昼前注射打ちに病院へ行った。病院の玄関が近くなった時、向こうから来るオーバーを来たやせたおじさんに気付いた。私が玄関の方へ寄って行くと其の人も寄って来る。ずい分近くなって、“井上先生だ”と気付いた。2年生の時追っかけっこした時の半分の体重もなさそうだ。「井上先生、どうされたんですか。」と声を掛けると、「おお、西橋君か。肺結核にやられてね、こんなになったよ。」と言われた。「僕も同じで今休学中です。」と言った。そして日本でもSMが早く出来て、結核の人が早く治るようになればいいのにと思った。そうしないと井上先生は危なかばいと考えた。私は自分が死ぬとは考えなかったが、いつ治るだろうかと考えていた。本を読む気力があれば本でも読むのだが、その気力もなかった。
 話が少しそれたが、小学3年生の担任は宮原先生で、顔中髭もじゃもじゃで一見恐ろしそうな先生にみえたが、授業を受けてみるとそんなに怖い人ではなかった。ところでこの先生から初めて体罰を受けた。
 この頃私達のクラスでは(泥棒巡査)という団体遊びが始まっていた。55人中40人位が加わっていたので、まあまあ、まとまりのあるクラスだと思う。40人を2組に分けて泥棒と巡査を作る。泥棒は教室以外だったら何処に隠れてもよい。巡査は運動場の片隅の大きな木を陣にして、木の廻りに適当な円を描いて、4〜5人で守り残りは泥棒を探しに行く。見つけた泥棒を巡査は陣地の円の中に入れる。泥棒が一人、巡査にタッチされず大きな木にタッチしたら、今まで捕まっていた泥棒は解放されて逃げて行く。巡査は亦追いかけて捕えに行く。これの繰り返しなのだが、面白くて仕方ない。
 運動場に吊してある鐘が鳴ると昼休みは終りで、全校生徒運動場に並んで、レコードに合わせて第一ラジオ体操をする。体操が終わると受持ち区の掃除だ。或る日、いつもの木を陣地にせず運動場から離れた奥の方に陣地を作った。一生懸命遊んでいるうちに、誰かが「運動場の静かになったごたるばい。体操の始まったとじゃなかろか。」と言った。「鐘の音は聞こえんじゃったばってん、本当に静かになっとるばい。校舎の角から見てみるで。」と二人が覗きに行った。「おい、始まっとるばい。どげんするな。」と言う。「今始まったばかりのようじゃっで、走って行って2組の後に並ぶばい。」と誰かが言った。「よし、そぎゃんするばい。」と皆で言って運動場に駆けて行った。2組は15人位並んでいた。私達は其の後について体操をした。体操が終っていつもの掃除だ。「先生の何もいいやれんじゃったで良かったね。」と話しているところへ一人がやって来て、「昼体操に遅れた者もんは足洗い場の前に集まれて言いやったばい。」と言う。その頃は真冬を除いて教室も廊下も運動場も素足であった。運動場や中庭等の外を歩いた時は、コンクリートで作った足洗い場で足を洗って教室へ上がる事になっていた。水の深さは学年に合わせて浅くから深くまであった。私達が集まった処は3・4年生用で水の深さは15p位だった。「その中に30分間、正座しておけ。」と先生は言って職員室へ行かれた。9月の末か10月の始めだったので水は左程冷たく無かった。
 30分も経ったろうか使いの者(クラスメート)が来て、「もうよか、上がって教室に行けてばい。」と言った。我々は皆立ったが、下着はパンツから半ズボンまで殆ど濡れていた。
 ズボンは脱いで水を絞ったが、パンツは脱ぐ訳もいかず、手で叩いて出来るだけ水を追い出した。午後の授業が1時間あった。服は生乾きだったがそのまま帰った。入口に居た母が私のズボンを見て、「あんたのそのズボンはどうしたのね。」と訊いた。私は学校であった事を話した。「それじゃズボンも下着も全部水洗いして干して置くから脱ぎなさい。明日の朝までには乾くから。」と母が言った。私は全部脱いで他のパンツを出してパンツひとつでいた。
 翌日学校へ行くと昨日の出来事で家の人から何も言われなかったかと言う話がでていた。「そりゃ、鐘の音を聞きおとした方が悪かばい。」と言われたという級友が多かった。亦、「聞きおとしたのは悪かばってん、足洗い場に30分も正座させんでもよかと思うばい。」と言ったお父さんもいた。「誰か休んだ者もんはおらんどか?」「菊池君が来とらんばい。」ということが分った。学校から帰ってみると、母が「今日は菊池さんな休みなさったでしょう。」と言う。「うん、あん人ばっかり休んだばい。」と答えると、母が、「菊池さんのお母さんが先生に電話して、『先生が水などに座わらせなったで家うちん子は熱出してうなって寝とるとですばい。勉強の遅るとばどぎゃんして下さるですか』て言いなったげな。自分の子が悪かとに、先生にこぎゃんこつば言うて失礼ばい。」と言った。他にも一言、言いたい人もいただろうが、その頃は先生は神様だった。今頃こんな事をしたら、全父兄が学校に押し入って、担任はもとより教頭・校長も吊し上げられ、教育委員会まで話は持って行かれるだろう。
 この事が無ければ恩師と言えただろうが、この事のため恩師と呼ぶ気持ちが失せた。

 4年生になった。この学校では毎年担任が変わる。持ち上がりとどっちがいいだろうか。生徒のため、教師のため。今度はどぎゃん先生の来なっどかと始業式の日まで皆と話していた。始業式の日校長先生の話のあと担任の発表があった。4年2組「鏡先生」と発表された。「今度新しゅう来なった先生ばい。」と傍の2・3人と話した。でっぷりした坊さんみたいな体格の先生だ。「怖い人かもね。」と誰かが言うと、「角力みたいに肥った人は案外優しか人が多かばい。」と別の一人が言った。
 その日は、生徒一人一人が名前と住所を先生に伝え、先生は八代市の隣町の「鏡町」に住んでいると言われた。翌日から授業が始まった。朝は8時半に「お早うございます。」という朝礼で授業が始まり、午後は5時間目が終わると、明日の事の伝達があり「先生さよなら。」と夕礼をして帰った。3週間位はこれでうまく行っていた。或る日10分待っても先生が見えないので級長が職員室へたずねに行った。先生の姿が無いので教頭先生に尋ねたら「先生は30分位遅れて来られるから自習して待っていなさい。」と言われた。自習と言われても何をどうやったらいいのか咄嗟に思いつかない。結局殆どの人が2・3人ずつ集まって小声で話をしていた。帰りも夕礼の時間になっても先生が上がって来られない日があった。15分位経つと級長が職員室へ聞きにいく。「今日はもう帰ってよい。」と言われると、級長がそれを皆に伝える。「さいなら。」と口々に言って帰って行く。
 先生の遅刻が段々増えて来た。帰りも4時半(午後)頃と早くなった。級友の一人が何処から聞いて来たのか、先生は鏡町から通勤されているそうだ。人吉まで汽車で1時間半はかかる。その当時は急行は無かった。どうして先生は人吉に引っ越してこられないのだろうか。来れない事情があるのだろう。然し教頭も校長も何も言わないのだろうか。先生には強力なバックアップがあって、校長も何も言えないのだろう。先生は2ヶ月に1回位、1時間外出される時があった。その時は自習になる。
 或る日、又、先生の外出時間があった。「又自習か。」と言う人達がいたので、私は思い切って皆へ言った。「僕が日曜学校で聴いた話ばしてみようか。」「うん、何でんよかでやってみてくれんな。」と言う声があった。私達が住んでいる母の実家の隣りが西本願寺別院だった。そして月1回か2回日曜学校があって、あちこちから集まった小学生がお経をあげ、お経を読み、お尚さんが仏様について話し、最後に子供向きのお話をしてくれるのだ。門人でない私は、お尚さんの童話が始まるまでは、庭にいて、童話が始まろうとする時に、そっと本堂に上がって皆の後に座った。お尚さんの童話は大変面白く、又為になる事も含まれていた。一度聞くと長い間忘れずにおれた。この日は大分県の英彦山の麓に伝わる「小こ金がね虫むし」の話をした。お尚さんの手ぶり足ぶりも覚えていたのでその通りにやった。話し終わると、「西橋、面白かったばい、又してくれな。」と何人かが言ってくれた。思い切ってやって良かったと思った。
 ところで、5月に入るとビッグニュースが入って来た。それは4年生だけ八代海に潮干狩に行くということだった。今まで先輩達で潮干狩に行った学年はない。これは鏡先生が土地の人で沢山の漁師さん達を知っているので、普通なら人が入れない干潟に入れてもらえるようにしてもらったそうだ。潮の引く時間や天候までちゃんと調べておられたのだ。
 人吉駅に着くと臨時列車がホームに入っていた。男女総勢200人の旅行だ。列車に乗ってみると、何と寝台車だ。ひと駒に3段ずつ向きあって椅子があり、6人寝れるようになっている。汽車にゆとりがあったのかひと駒に4人掛けで乗った。中段・上段の椅子を紐で固定し、交替で、上段、中段、下段に寝そべって遊んだ。3等寝台車だったが、寝台車に乗ったのは初めてだったので楽しかった。
 八代駅で降りて球磨川沿いに歩いた。右側は広い稲の田圃だ。暫く行くと球磨川が終った。それから10分位歩いたら、海へ降りる梯子が幾つか架けてある。もう潮が引いて砂浜が見えている。そこで体操服に着替えて海へおりた。今潮が引いたばかりと思われる砂が濡れているところへ行って熊手で砂を掻く。貝殻ばかりで貝は出てこない。場所を変えながらあちこち掘っていると、アサリが2個取れた。友人と「も少し先へ行ってみよう」と海水が溜っている近くへ行って掘ってみると、またアサリが3個取れた。「こん海水を渡って向こうの砂場へ行ってみようか。」と私は言って、二人で渡った。膝の深さまであった。あちこち掘ってると大きな貝が1つ見つかった。ハマグリだ。アサリの6倍は大きい。その時集合の声が聞こえて来た。「も一寸早うこけくればハマグリの沢山取れたかもね。しもたね。」と言いながら集合地点へ帰った。鏡先生は貝は取らず、砂に小さくあいた穴に藁わらしべをさし込んで上下させて何かを取り出そうとしておられる。「何ば取んなっとじゃろかい。」と言ってしばらく見ていたが、私達がみてる間は何も取れなかった。私達はと見れば、皆似たり寄ったりの収穫だった。
 帰りも寝台車だった。列車の中をあっちへ行ったりこっちへ来たりして遊んだ。人吉駅で解散だったので、同じ方向の人が幾人かずつ集まって帰った。家へ帰りついて母に見せたら「あら、大漁だったね。今夜は貝汁でも作らなくちゃね。」と貝を真水につけた。
 夕食時、母が「この貝は1個10円の高価なものだからよく味わって食べてちょうだい。」と冗談を言った。弟は0才でまだオッパイだったので、残り4人でハマグリは分けて食べた。
 10月の中旬だったが、先生が日曜日の宿題に作文を出された。題は自由ということだった。私は書く題はすぐに決まった。母の実家は大地主で、米と菜種とが秋には沢山入って来た。菜種はナタネ油を作り、米は焼酎を造った。いつもの杜氏さんが二人通って来た。一人は街中の人だったが、もう一人は町はずれの人で横田さんと言った。二人共40代であったろう。その横田さんが、竹と大きな針金で、将校が下げているような剣を作って来てくれた。私は早く何かに使いたかった。日曜日が来た。だれいうともなくお寺の庭に集まって来た。全部で8人になった。「とおる君達を呼んでくれば10人になっで丁度よかばい。」と誰かが言った。とおる君達は双子の兄弟で3年生だった。彼らも遊び相手が欲しくてうずうずしていたみたいだった。10人になったので5名ずつに分かれ、私は白軍の隊長になり赤軍の隊長には同学年で二従兄にあたる緒車君になってもらった。私達は鐘撞き堂を本陣とし、赤軍は本堂の廊下の下を本陣とした。それからお互いに物陰を利用して敵の陣地へ進んでいく。戦線はいろいろな局面を造りながら、1:1で終った。
 私はそのことを「戦争ごっこ」という題で作文にして出した。原稿用紙3枚位だった。次の週の国語の時間に先生は皆が書いた作文を持って来られた。「皆がんばって書いていて、いい作文が多かった。その中から1つ選べと言われたら、これを選んだだろうと思うのがあった。参考のため今から黒板に書くから、皆はノートに書き写しなさい。そして良いと思ったところは黒線を、別の書き方がよいと思うところは赤線を下に引きなさい。」と言われた。
 題は「戦争ごっこ」だ。僕と同じ題の人がいたものだと思いながらみていた。先生は黒板の上から下まで、右から左へと書いていかれる。読んでいくうちに、何だこれは俺の作文じゃないかと分った。作文は、黒板の端から端までやっと詰まった。数人が「こりゃ誰だいが書いたとや。よう、こげん長う書くな。」と言っている。「青木じゃろか、正岡じゃろか。」と彼等の方をみる。彼らは手を横にふる。私は刀の事をクラスでは話してないので、私とは見当がつかないらしい。流石に先生だ。戦争ごっこが楽しかった事、誰も持たない刀を持っている事が嬉しい事を一生懸命書いた甲斐があったと嬉しかった。家に帰るとすぐ母に報告した。「作文が返って来たら読ませてね。」と言われた。
 3学期になると、3月の中旬に学芸会がある。ダンス、劇、合唱、独唱など、クラスで出したり、学年で出したりする。私は3年生の時、6年生まで学年から3〜4人出る演劇に選ばれ、明日から練習という練習第一日、風邪で休んで、翌日練習場に行ったら、もう外されて、代りの人が入っていた事があり、くやしい思いをした事がある。どこのクラスも学年も1月初めから練習に入っているというのにうちの先生は学芸会については何も言われない。
 2月の初め、久し振りに習字があった。漢字四文字書くのだ。私は書道塾に行った事はないが、こんなことがあった。まだ荒木村に住んでいる時、姉が小学2年生で、私は来年が1年生という年だった。姉が同級生5〜6人と2年生の習字の先生に週2回、放課後習字を習っていた。10月になった或る日母が「弘ちゃん、姉ねえちゃんを学校に迎えに行ってくれね。」と言った。私は「うん。」と言って学校へ行った。廊下から教室を覗くとまだ練習中である。私は中庭に出て庭の砂を集めて、山を作ったり、トンネルを掘ったりして一人で遊んでいた。やっと終わったらしく児童が出て来た。姉も出て来た。「あら、弘ちゃん迎えに来てくれたのね。ありがとう。」と言った。考えると秋と共に日暮が早くなるので、母は私を用心棒係に姉を迎えにやるのだと分った。
 2〜3回は庭で砂遊びしたが一人ではつまらないので廊下から中の様子をみる事にした。2回目頃習字の先生が手招きされるので教室に行った。「君も習字を書いてみないね。」とおっしゃる。「待つ身もつらいので私にも教えて下さい。」と言った。「次から道具をそろえておくので、習字の日においで。」と言って下さった。次回は2年生の教室に集まる様言われた先生は、姿勢の事、墨の摩り方、筆の持ち方などから教えて下さった。そして、易しい漢字から筆の入れ方、留め方、点のうち方など細かいところから教えて下さった。その後は、毎月1回の習字競技会で腕を磨いた。
(つづく)




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