=== 設立60周年記念特集 ===

     私 と 市 医 師 会

中央区・中央支部
(沖野循環器科病院)  沖野秀一郎

 会員の皆様、毎月発刊の「鹿児島市医報」はどなたもお目通し下さっているものと思います。どうでしょうか?
 さて、本年度の第2号(通巻540号)に小生「刀圭会長就任のご挨拶」を書かせて戴きました。
 昨年、市医師会執行部から依頼を受け、「刀圭会」会長をお引き受けしたわけです。その歴史を私なりに調査しました。事務局から現在残っている資料を取り寄せ、また何人かの先輩、友人の先生方にも情報を聴くのですが、誰方も詳細はわからないが、「ただの“飲ん方”よ」と逃られました。
 はじめは「刀圭会」でなく「月五会」と言う名称だったようです。「刀圭会」の意味は成る程と思われる記載もありました。しかし全く驚くべき会の沿革にはびっくりさせられました。即ち大正14年「鹿児島医学雑誌」の森三木先生の記事として、明治29年頃、若手の先生方が相集い、新しい「医療情報」の話題提供、「医学会」の進歩、実験報告、特に外科系の手術の進歩、新薬紹介、食餌相談、ごく最近になって成人病センター等で行うようになった「健康相談」、それには諸外国特に中国からの「漢方」等の積極的な情報輸入等もみられます。
 医学教育も考えてみれば、例えば鹿児島大学医学部が誕生したのはごく最近のことですし、当然のことながら当時の病院の仕組み、大・中病院の組織、専門職の開業医等、夫々の先生方の出身校も多くなかったので各自の同窓会的な寄り合いもお楽しみだったのではないでしょうか。
 これこそ私事の古い想い出で恐縮ですが、小学校6年まで松原神社の近くで亡父(盛起)が内科を開業、呉服町に野尻靖敞先生が小児科を、西千石町に鮫島宗雅先生が肛門科専門、そしていまなお空地になっていますが山下小学校前で市医師会長まで務められ県外からも手術の患者でご多忙を極められた廣瀬平次先生を親分に悪童4人組が「月五会」はおろか週2〜3回、当時の「沖の村」まで“飲ん方”。私の亡母(英子)は女子師範二高女教師(現在のお茶の水女子大出身)をしており、後には初代の鹿児島県教育委員会のただ独りの女性委員まで務めた有名人だったのですが、亡父が前記3名の悪友をお待ちし、亡父に羽織袴の正装をさせ当時としては派手なカバンを持たせて、玄関で丁寧に「行ってらっしゃいませ」と手をついて送り出す姿が、“なんで!!”と想い出されてなりません。私は当然寝ておりましたが、亡母は毎晩勉強しながら酔っぱらった亡父の帰りを深夜まで待っていました。上記4名の長男4名は有難いことに医師になって頑張っているようです。(廣瀬俊一先生は現在大阪とか、鮫島 潤先生は中央支部、野尻曠嗣先生は錦江支部、沖野秀一郎は中央支部)どうも父親たちの悪口をあばいてゴメンなさい。
 さて、市医師会も設立60周年を迎えるそうです。昭和48年武田元一郎先生がご逝去後、後任の選出がなく今日に至った刀圭会会長を昨年お引き受けしたことは前述しました。偶然ですが武田元一郎先生の三男寛君とは幼稚園、小学校の8年間同級、そして二男の二郎先生は耳鼻科のお父上をお支えしながら、市医師会理事(編集委員担当)趣味として超プロ級の音楽、特に合唱指導。そこで当時一高女の音楽の薗田芳技子先生を伴奏ピアニストにお願いし、混声合唱団コンセールが誕生しました。私も亡母がお茶の水時代好きだったと言って、「早春賦」「花」等を毎日聞かせてくれたこともあり、コンセールに入団。ただ残念なことに武田二郎先生が四国の県病院に赴任されたので、僅か数年でコンセールは解散になりました。私も昭和25年から名大第一内科に入局、昭和34年9月26日の伊勢湾台風で夫婦と長男の3名は九死に一生を得ましたが、死者は名古屋市内だけで2,000名、当時、派遣先の病院も2階迄水没、翌日から「訪船診療」と称しボートでDr.とナースが1名宛毎日朝から夕方まで往診が続きましたが、手が荒れて名大医学生諸君が奉仕でボート漕ぎをしてくれたことが懐かしい想い出です。
 それやこれやで翌年帰鹿、現在地で開業生活に入りました。私は随筆を割合よく書く方でしたので、編集委員に指名されました。編集委員をしていると早急に幅広い医療情報が飛び込んで来て、すぐ文章として医師会に報告する。足繁く医師会に出入りもする。それが理由で理事として医師会執行部に引っ張られました。現在でも編集委員から執行部入りしたメンバーが結果として多数を占めていることに、皆様お気付きでしょうか。
 私は10期20年、執行部に在籍したのですが、上記編集委員以外に、殆ど20年間、頭を突っこんだのが会員共同利用施設の開設、運営でした。そのうち全国に先がけて話題をまいたのが、臨床検査センターの設立です。マスコミにも殆ど毎日取材を申し込まれ、全国ネットで一般市民にも報道して戴きました。勿論、医師会関係では九州首市医師会をはじめ、全国から見学にみえましたが、いまもって忘れられないのが歴代の日本医師会長で最も名を残しておいでの武見太郎先生がお祝いにご来鹿戴いたことです。しかも私事ですが、愚妻が大きな花束を先生に差し上げるところを写真に撮られ、今もって当時の医師会報に掲載されています。私の最後の仕事は医師会病院、夜間急病センターの設立でした。両施設とも開設の第一夜に立候補して翌朝まで「当直」をした感激は未だに忘れません。
 医師会職員との付き合いですが20年間に30組の仲人をしましたが、そのなかで医師会職員が20組で、まだ1組も離婚者のないのが、嬉しい限りです。お笑い下さい。
 最後に市医師会の歴史として、残念極まりない話題、それは昭和58年2月10日夜、当時の横小路喜代嗣会長がご自宅の前の電車通りで暴走車にはねられて、すぐ前の市立病院へ搬入、時任純孝先生はじめスタッフで救急蘇生法が行われましたがその甲斐もなく永眠され、会員一同ショックでした。そのあとを引き継がれた副会長の久留克己先生ですが、ゴルフ等休日には運動を楽しまれ、極めてお元気でしたのに会長2期目の昭和62年12月10日の夜、理事会終了後ご家族と夕食をされている最中、体調不良を訴えられ、即刻市立病院へ緊急搬送されましたが、2日目に脳内出血で永眠されました。副会長職にありました私、沖野が会長代行をつとめ、翌年3月末任期までの4ヶ月は言葉で言い尽せない毎日でした。10期20年、もうこれ以上はと、お許し戴き、退任させて戴きました。
 長々と駄文を連ねましたが、最後にいま市医師会に関係をもっていることと言えば、“刀圭会”(会長就任)と混声合唱団“サザン・エコー”(世話人)です。
 以上、書き終ってみれば、医師会への「奉仕」ではなくて、無意識ではありますが、医師会への「甘え」の60周年だったのでしょうか。多くの先輩、後輩、そして職員の皆様への感謝の念で一杯です。有り難うございました。益々の市医師会のご発展を祈念し、筆を擱きます。




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