 新制鹿児島市医師会設立60周年記念という大きな節目を迎えられ、まことにおめでとうございます。私自身、本医師会に所属する西区・甲北支部の一会員でもありまして、末端を支える者として感慨ひとしおでございます。
「光陰矢の如し」と申しますが、10年前の50周年記念式典が、つい、昨日のことのように思えてなりません。あのとき、当時の松岡克己会長が「会員数950名」とおっしゃいましたが、今や1,301名と増加され、鹿児島県医師会員総数3,911名の約3分の1を占める大所帯となっておられるところであります。
県都60万4,000鹿児島市民の「命と健康・保険・介護に予防」を支え、県内18郡市医師会の中心的存在となって、県内医師会活動に力強く、積極的ご参加をいただいている組織活動の充実ぶりは、まことに頼もしく、その活気あふれる社会貢献に対し、心より敬意と感謝の念を捧げるしだいでございます。
さて、新制医師会が誕生した60年前、すなわち昭和22年という年は、日本医師会をはじめ、鹿児島県医師会を含む全国都道府県医師会と、各郡市医師会が陸続と設立された年であります。日本国憲法の施行とともに、新しい日本に向かって、敗戦から立ち直る復興の槌音が、全国津々浦々で、明るく、高らかに鳴り渡った年でありました。
学制改革による6・3・3制もスタートし、当時の県立鹿児島医学専門学校、通称「県立医専」は、県立鹿児島医科大学など、あわただしい改編・統合を経て、県立大学医学部へ、そして昭和30年には国立大学に移管され、平成16年には、何と独立行政法人化という道をたどったことになります。
60年という歳月は、私ども一人一人にとって成長の軌跡であると同時に、組織もまた、産みの苦しみを経て成長し、特に、昭和59年に開院された、鹿児島市医師会病院は、今では「日本医療機能評価バージョン5」という最高の認定を受けられ、地域医療支援病院として「7対1看護配置」も導入されるなど、経営改善が軌道に乗った、と伺っております。
しかしながら、厳しい時代背景にあって、訪問看護ステーションや在宅介護支援センターは、閉鎖を余儀なくされ、検査センターも、厳しい運営を強いられているようでございます。
また、看護学校も入学希望者減少等、時の変遷により影響を受け、准看護師課程が来年3月、また看護師課程も平成23年で廃校の方向とうかがい、今後の医療現場における人材確保が大きく懸念されるところであります。
そのほか幾多の困難を乗り越えて成熟の境に達せられたものの、この60年はまことに重い試練の歳月であったと思われるところでございます。この間の会員、特に多くの犠牲的使命感や責任感に応えられた初代平安山長義会長をはじめ、歴代の広瀬平次会長、島本保会長、松村吉之会長、尾辻達意会長、横小路喜代嗣会長、久留克己会長、太原春雄会長、松岡克己会長、海江田健会長、林茂文会長をはじめとし、時代、時代の執行部のご苦労は、筆舌に尽くし難いものであったろうと思います。
人間であれば60歳。還暦といわれます。このようなことからも、生まれた年に還る「本ほん卦けがえり」といわれており、まさに耳じ順じゅんのお年頃、文字どおり大きな節目の年になりました。古来「初心忘るべからず」「前進なくして進歩なし」という言葉もございます。
草創期にご苦労された先達の向上心に思いを馳せつつ、近未来を展望するとき、患者さんの年々高揚する権利意識への対応のあり方、医療制度改革、新しい医療提供体系、診療報酬体系等々がいまだ不透明な中で、医師・看護師の需給不足等、実に難題山積であります。
しかし、このピンチをチャンスに、鹿児島市医師会をはじめとする私ども医療界は社会に対し、何を、どうやれば、貢献できるのかを真剣に考え、地域住民参加の各種事業に取り組んでいるところでございます。
昨今、国の医療費抑制によって「使命感も限界か」といわれるふしもありますが、何が何でも医師たる倫理感を見失うことなく「共に行動し、共鳴する」という決意を新たに、誓わねばなりません。
終わりに当たりまして、市来健生会長の先見に富む、強いリーダーシップのもと、鹿児島市医師会がさらなる飛躍・発展をなされますことを、お祈り致しまして、あいさつとさせていただきます。

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