思うこと

平成19年度鹿児島市刀圭会夏季例会に参加して
中央区・中洲支部
 (放射線科内科池田診療所) 池田 耕治
中国 春秋時代の刀銭


  平成14・15年度にこの会の担当理事を仰せ付かり、いささか役不足ではありましたが、幹事の先生方のご努力と、盛り上げてくださった刀圭会員の先生方のおかげを持ちまして、任を全うすることができました。その節は誠に有難うございました。最近は婦人部会との合同の企画が多かったようで、専ら妻が出会、私は留守番役(家で子守)を勤めておりました。久しぶりに参加させていただいた刀圭会は何時もと変わらず、和らいだ雰囲気で始まりました。
 冒頭の挨拶をされた沖野秀一郎会長は、「刀圭会会長就任のご挨拶」(鹿児島市医報第46巻2号)のなかで、刀圭会の起源を現医師会の発足よりも早い明治29年頃の「月五会」とする森三木先生の記事を紹介しておられます。この「月五会」は若手医師を中心に医学・医療の情報交換や学術報告の場として、また、医師の権威向上と、品性の陶冶や、医会および社会へ貢献する意識を高揚する場として発足しましたが、この気風が医会全体に広がり、「刀圭会」へと再編されていったようです。明治40年の医師会発足以降は会員相互の親睦を図ることを主たる目的の場へと変遷して行き、昭和37年に市医師会執行部が加わり運営を手伝うようになったのが今の姿です。
 さて、刀圭会では毎回幹事の先生方の企画によるハイレベルな、あるいは奇抜なアトラクションで盛り上がるのですが、今回はリニューアルオープンした島津重富荘でピアノ・ウッドベースの生演奏をバックに、「繊細かつ味わい豊かなフレンチ」と「厳選されたワイン」そして時間いっぱいの「楽しい語らいの時」を過ごさせていただきました。「語らい」の主役は刀圭会会員で、その中から一部改変・大部分脚色でご披露いたします。
 ある女性会員のエピソード;医学生のころ、是非観たい映画があったので同級生(同席された会員)を誘って観に行った。同級生は不機嫌そうではないが、終始無言で感想も何も特になかったとのこと。件の同級生であった会員の先生曰く、実は既に観た映画だったが、同級生のことを思って一緒に鑑賞はした。しかし、既に観ていることがバレてはいけないと思い、敢えて内容に触れることを遠慮されたとのお話。フェミニストな同級生の気配りを数十年ぶりに知って、女性会員はことのほか嬉しそうにしておられた。決めは「映画館で手でも握っていればなー」との周囲の会員の一言であった。
 ある会員のぼやき;医療費削減の次は医療法改正。いったい何時から苦しみばかり負わされる立場になったのか。日々の診療に精力を傾けることを本分とし、世情や政治に疎かったのが原因か?医師同士の間の危機意識が低かったからか?医師会の牽引力が弱かったからか?日本国政府が悪いからか?それともアメリカが悪いのか?やっぱりマスコミが悪いからか?
 ある会員の要望;刀圭会は、支部をこえて市医師会員の先生たちと親睦を持てる良い機会で、毎回楽しみにしておられるとの事。できれば、日常診療ではお世話になっていても、直接お会いする機会の少ない医師会病院の若い先生方も参加してもらえれば、とのお言葉でした。
 このように、旧交を温め合い、医会の現状について語り合ったり、盛り上がったり、新たな知己を得たりと、すばらしい機会を与えてくれた刀圭会に感謝いたします。
 最後に「刀圭会」の名称の由来です。「刀圭」とは中国の周、戦国、漢時代に通用されていた貨幣である刀銭に源を発しています。「刀銭の一端である圭壁(圭璧の間違いでは?)の中央に穴があって、この刀銭の圭角をもって薬剤の分量測定」とあり、転じて広く医師の意に用いられるのだそうです(圭壁と圭角が同一平面にある構造体をどのようにして天秤状に活用できたのかよく解りません。圭壁と圭角の軸を90゜捻ったのか?)。
 「月五会」の話に戻ります。実はこの会、明治中期に起こった医会の世代交代時の諍いを背景に結成されたもので、次第に医会を掌握した「月五会」が、旧勢力との和解と医会全体の融和を期して発足したのが「刀圭会」のようです。「刀圭」には「圭角」が付き物です。多少の「圭角が露わとなってもこれを包容すべし」との往時の願いが込められていたとするのは考えすぎでしょうか。

 圭角;人の性格や態度にかどがあって、円満でないこと。


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