== 思うこと ==

そして、私、学校医は堕落した
南区・谷山支部 H.M.


 石坂洋次郎の青春小説『青い山脈』は、当時としては現代的な女子高生、寺沢新子が転校して来た時から始まります。
 新子に同情する、進歩的な英語教師、島崎雪子とともに、青春の解放と、戦後の旧態然たる学校の民主化に取り組む、というあらすじです。
 そこに、新子や雪子先生に共感して協力するのが校医の沼田先生です。
 沼田先生は職員会議にも参加しますが、小説とは云え、校医の存在感があったし、カッコ良かった。患者さんの診察は下手くそだったけど校医の理想像の一つでした。
 ところで、近頃給食費不払い問題に代表されるように、親達の意識が何だか以前と変わって来ている、と感じる事があります。
 ほんの少数なのでしょうが、親達の身勝手な理屈や、学校に対する理不尽で非常識な要求などが、テレビのワイドショーとか、週刊誌などで度々話題になります。
 学童の知力、体力、学力の低下や、苛めの横行、不登校やひきこもりなど、社会性、適応性の低下などが社会問題になると、政府は、教育再生会議を立ち上げて、工夫の色は見せますが、議論百出でバラバラ。
 マスコミには、むしろ親の教育再生の方が先ではないのか、といった論調も見られます。
 親の意識の変化といえば、実は以前にも問題になりました。
 BSEの恐怖が全国に広まった頃、一部の親達は、学校給食から牛乳を外すように教育委員会に申し入れました。
 たまたま牧場に隣接した学校の親達が、牧場の牛の処分や移動を申し入れました。
 牛肉料理はもう止めて、サラダ中心の料理ばかり出す主婦が、食後の一服を旨そうに喫煙している不思議な場面も見た事があります。

 さて、私、当地で開業して間もなく、教育現場に少しでも貢献出来るのであれば、と張り切って校医になったのは20年程前の事です。
 学校医の職務・身分・役割は『学校医職務規程』に細かく定められていて、全うするとなると大変な時間と労力が必要です。とても片手間で済ませるものではありません。
 『学校保健安全計画』の立案に始まり、最終的には、校医の『職務の記録』を学校長に提出(義務)するまで、厖大なタスクが用意されているのです。
 前述、校医の沼田先生は、“偽手紙ラブレター問題”について、職務規定にある『PTA保健委員会』に出席、発言したものと思われます。
 現実を知る私は、仕事を中断してまで、PTAや職員会議に出席する事は滅多にありません。
 以前、学校医の仕事といえば、予防接種でした。
 インフルエンザやBCG接種のあと、局所の腫脹や化膿、発熱などの副作用で、どれほどトラブルになった事やら……。
 「怖がったり、嫌がったりする子供に無理矢理注射したらしいが、子供の人権無視ではないのか」
 「BCGのアトが化膿した。一体どういう消毒をしているのか…」などなど。それは挑戦的な口調で電話して来ます。
 今では、ほとんど予防接種が止めになって、こんな、嬉しい事はない。
 もう一つ大切な仕事が健康診断です。
 健診の方法及び技術的基準は『学校保健法』で詳細に指示されています。
 内科系は、視診、圧診、触診、打診、聴診で、栄養状態、脊椎、胸部、皮膚、心臓を診断する事になります。
 特に新入生は入念に、見逃しなく、を心懸けていたものです。
 脊椎は異常わん曲に注意して、又比較的頻度の高い二分脊椎を見逃すと恥ですから、腰部の色素沈着、多毛、凹みを必ず観察していました。
 ある親から、「健診で子供の下着の検査をした」との抗議が学校にありました。
 子供の、しかも低学年の話しを親が鵜呑みにしたのでしょうか。
 苦情を言われるのは嫌だし、私もヘソ曲りだから、以後ベルトから下は診るのを止めました。
 胸部は形態、大小及び筋骨の発達の程度を診る事になっています。
 女子は何かと問題があるから、せめて新入生男子は上半身の脱衣を指導しました。
 しかし、一部の親から、「男子であっても上半身裸にするのは抵抗感がある」と、異議がありました。(水泳の授業はどうするのだろう……?)
 以後、胸部を全体的に観察する事はなくなりました。
 皮膚は白癬、その他伝染性皮膚疾患に注意し、なお湿疹にも注意する、とあります。
 田園地域、山間地区の古い家屋にはネズミがいて、イエダニの被害が結構見られます。
 ペットの流行で、街中でも、イヌノミ、ネコノミの被害が話題になります。
 学童に時々アタマジラミだって発生します。
 低学年女子児童が、全身刺虫症らしい。引っ掻きまくったのか、見た目にも悲惨、加うるに、アトピーの傾向もある。最近、流行傾向にある、ヒゼンダニも脳裏にあったし、何しろ集団生活だから、念のため皮膚科受診を指導しておいた。
 しばらくして、抗議の電話が来ました。
 「皮膚科で、ネコノミに刺されただけだから、ネコのノミ退治が先だ、と笑われた。大袈裟な指導で、余計な出費を被った。(どうしてくれる…。)」という主旨のもの。
 以後は、例えばアザなどの外傷痕や熱傷などの生傷、高度な低体重など、人命、人生に係る重大事象以外は、なるべく指摘は控える事にしました。(少々のアトピーや水イボなんか無視。)
 子供達の表情、声色、言語、応対などの様子を知りたい時は、冗談など話しかけて、その反応をみます。
 「給食は残さなかったか?」
 「ゲームばかりで、夜更かしじゃないか?」
 「顔の引掻き傷は誰とケンカしたか?」など…。
 何しろ、皮肉屋の冗談好きの、その場で口をついて出る言葉だし、相手がたまたま、ませた子供だと、親に何を告げて、何を誤解されるか判ったものじゃない。
 “君子危うきに近寄らず”
 “あつものに懲りて、なますを吹く”の諺あり。だから、健診中余計な口は利かなくなった。
 唯々、黙々と子供達の列を時間内にさばいていくのです。
 かくして、私、学校医は堕落しました。




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