緑陰随筆特集

ト イ レ の 屋 上 で 国 王 招 宴
エフエム鹿児島社長
               大囿 純也

 5月、初めて与論島に出かけた。新聞記者を40年もしていながら「初めて」とはなんとも後ろめたい気分だが、社会部や奄美の支社を経験しなかったので、これほど知られた島でありながら、ついぞ行くきっかけがなかったのだ。それに、今は飛行機で1時間少々の与論も、私が駆け出しのころは船だけ、鹿児島から片道たっぷり1昼夜かかった。台風時期は1週間も欠航することが珍しくなかったから、休みを取って気軽に、というところでもなかったのだ。
 今度の与論行きは、FMに来て初めての社員旅行である。たちまち着いた。
 清潔な島、と直感した。この直感は、与論の魅力を表現するのに、さしあたって最適のキーワードではないか、と今も思う。
 例えば、公衆トイレが立派なこと。観光パンフで目立つのも、まずトイレの表示だ。20平方qのこの島の海岸沿いに、数えてみたら合計14もある。
 周知のように、与論観光の売り物のひとつはダイビングだから、特に女性ダイバーを呼ぶには「身近にトイレ」が欠かせないことはわかるが、きれいなのはビーチのトイレだけではない。昼食に立ち寄った町外れのレストランで「トイレがピカピカでした!」と同行の社員が感心していた。
 間違いなく与論の売りはトイレだ、と納得させた一大イベントは、到着したその晩に開催された「ヨロンパナウル王国」国王の招待による私たちのための歓迎宴会であった。ちなみにパナは花、ウルはサンゴである。
 夕方、ホテルに迎えのバスが来て会場へ向かった。運転するのは観光大臣のゲンゴロウさん(本業は町議で福地元一郎というのだが、なぜか島内ではゲンゴロウで通っている)。
 「本日は夕日と星空をたっぷり満喫してもらいます」とゲンゴロウ大臣。
 私たちのホテルはビーチに面していて、隣は空港と港。埠頭の先に白い2階建ての建物が見えた。屋上で国王(町長の南 政吾さん)が手を振っている。あそこが本夕の宴会場らしい。なるほど、星空をめでながらの宴会にぴったりだ。それにしても、いったい何の建物ですか、あれ。
 「トイレですよ」
 「・・・・」。

 真っ赤な太陽が波間にとろけるように沈むと、かわって星空が輝きを増す。この時期、北斗七星が真上に位置するのだそうだが、名前だけは子供のころから知ってはいたものの、これほど鮮やかで巨大な星座であるとは知らなかった。というより、落ち着いて夜空を眺める余裕などこれまで絶えてなかったなあ。
 などと感傷にひたっているひまなど、実はなかったのだ。投光器に明かりがつくと、さっそく名物の「与論献奉」(よろんけんぽう)が始まる。与論、と聞いて内心少なからず恐れをなしていたのがこれだった。
 「与論献奉」は、昔からこの島に伝わる独特の宴会作法である。「親方」役が口上を述べたあと、大杯に酒を注いで客人に捧げ、順番に回す。茶席やアメリカ先住民の儀式のように、お茶やタバコを一服ずつ味わって順番に回すのではない。出された杯は各人一気に飲み干す。返杯したあと、それぞれ口上を述べなければならない。『与論献奉十ケ条』という大層な掟(おきて)があり、私たちもゲンゴロウ大臣からあらかじめ書いたものを頂いていた。その第三条に「与論献奉は何人たりともこれを断ることはできない」とある。
 主賓から、というわけで、恐る恐る私がまず大杯を押し頂いたのだが、先刻の不安は文字通りの杞憂であった。なにしろ、この地酒(与論のK糖焼酎、有泉)が実に薫り高くマイルドなのである。しかも最初は杯にほんの少し注がれる。(もっともこれは客人を油断させるためでもあったらしく、次に回ってきたときからだんだん「水位」が上がっていったような気がする)。
 翌日、有泉の蔵元を見学して知ったのだが、焼酎の生命である原料の水は足りないぶんを雨水をろ過して使う。与論島はサンゴ礁でおおわれていて水源が乏しく、川もない。天からのもらい水に頼らざるをえないのだ。
 宴たけなわ、本来ひとりだけのはずの「親方」が、いつのまにか何人にも増えている。だから杯はひんぱんに何回もやってくる。これは厳格に言うとあきらかに“献奉違反”である。第四条に「与論献奉は適量を厳にひとり一回だけ行う」とある。
 条文を素直に実行しているところは皆無であるにもかかわらず、このことが政治問題や“献奉改正”論争に発展する気配がないのは、同条の精神が“回数”ではなく、もっぱら“適量”に力点を置いているからである。弾力的な運用こそがより現実的なのである。このことは、憲法第九条も同じではないか。
 最初に一回りしたところで、次からは氷のかけらを杯にたっぷり入れ、実際の酒の量を加減したり、目くばせすれば「親方」がかわりに飲み干してくれる。
 ありがたいことに、献奉に供される「有泉」は島内だけで販売しているアルコール20度(島外向けは25度)であり、さほど強烈ではない。もちろんトイレの心配無用。なにしろこの建物全体がトイレである。ここを招宴の会場にしたのは、夕日や星空を眺めるためだけではなかったのだ。これぞパナウル王国のホスピタリティ。“平和献奉”バンザイ。

 奄美群島は、沖縄とともに戦後米軍の軍政下におかれた。昭和28年に奄美全域の本土復帰が実現し、その後47年に沖縄が復帰するまで、群島最南端の与論島が日本の南の国境線であった。海岸にそのことを示す北緯27度線の石碑が建っている。20年間、沖縄の人々はどんな思いで、手の届きそうな隣の島、与論を眺めて暮らしたことだろう。

 ホテルのベランダで仰ぎ見る星空が、トイレの屋上からの眺めとはまた違って、一段と鮮やかに、なぜかうるうると懐かしく感じられたのは、そんな感慨に加えて「天からのもらい水」でこしらえた焼酎のせいもあったのか。



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