童謡詩人として将来を嘱望されながら不幸な人生を自ら絶つに到った本名金子テル(ペンネーム金子みすゞ)の足跡を辿ってみた。「みすゞ」とは信濃の国の枕詞、テルはこの言葉の語感の持つ美しさ、音の響きの美しさが好きだった、これはテルの風格に良く似ている。
彼女は長州仙崎に生まれた。江戸時代から鯨の捕獲で日本一を競っていた活発な港町で芸者も居たし遊郭もあった。地元の向岸寺には鯨の過去帳があり毎年鯨の法会を営み特に鯨の胎児を手厚く葬るのが習いだった。このような環境に育った「みすゞ」が何時の間にか信仰の厚い娘に育ち仏の道を教えられ、輪廻転生、諸行無常の感覚が身に沁みてきたものと思われる。「みすゞ」に「鯨法会」という美しい詩がある。彼女の詩には海や魚が多い。
大体女学校時代から利発でクラスの人望を集め、久留米絣に友禅模様の前掛け、そして級長の腕章をつけていた。学芸会の時、原稿なしですらすらと詩の話を述べたことがあり、卒業式では代表で答辞を読んだ。三味線、長唄も習っていたという。彼女は周囲に優しく、礼儀正しく、色白の美人顔で何時も笑顔を絶やさなかった。人と争わない人だっただけにいろいろ物を感じてもそれを心の奥深く秘めていたのだろう。この世に咲いた白い蓮の花のような落ち着きがあった。当時、学校は貞女淑女の教育が中心で特に裁縫の先生は厳しく、「みすゞ」でさえも泣いていたことがあるそうだ。学校の先生は奈良女子師範学校受験を薦めたが彼女は先生になるのは性に合わないと断っていた。
彼女の父は下関で手広く上山文英堂書店を営んでいた実兄の手伝いの為、中国の営口支店を任されていたが事情あり急死した。彼女は幼くして(3歳)父を失い、母は義兄(妹の夫)と再婚し、弟(正祐)は母の婚家先に養子にやられ、しかもそれが弟には全く知らされていなかった為、実の弟を「坊ちゃん」と呼ばされていた。弟は音曲をたしなみ、当時からバイオリンを弾いていた。美しい詩を書く姉を実の姉とは知らないで年上の美しい文学少女として慕い、その詩に曲を付けようと思って何となく男女の交際の雰囲気が見られるようになった。弟は徴兵検査の時初めて養子という事を知ったが親が誰かは知らされていなかった。従って使用人として上山文英堂書店支店に勤めていた「みすゞ」をまだ実の姉とは知らなかった。
小さい時から本を読むのが好きで、しかも本屋に勤め書棚に埋まり客のほかに話すことも無く充分読書も出来た彼女のことだから投稿した彼女の詩が何れの書店からも採用された。彼女は非常に嬉しかったらしい。「何時までも待つまいと思いながら毎月15、6日になるとじりじりするほど待ち遠しくなり待つ間が長いほど歓びは大きかった」と涙ぐむほど喜んだ。その後次々に投稿して西条八十らから「若き童謡詩人の巨星」と激賞を受ける。そして北原白秋、泉鏡花、島崎藤村、野口雨情、若山牧水、竹久夢二、与謝野晶子等と若い女性ながら有名人と同列に加えられた。彼女は若い投稿詩人達の憧れの的だった。時に23歳の若さだ。彼女の詩の視点は人間ではなくて時には魚になり、時には鳥になって物を考える、そして誰でも解る優しい言葉で詩を書いている。
大正末から昭和の始めは童謡の黄金期だった。「カナリア」「慌て床屋」「赤い靴」など挙げれば切りがない。大正生まれの私達は「みすゞ」の詩の時代に育ったのだった。懐かしい思い出だ。
その頃「みすゞ」は自分の気に染まないまま上山文英堂書店の番頭であったが使用人の間には評判の悪い人物(宮本幸太郎)と店の後継者が育つまでの中継ぎとして結婚の話が出されたが、彼女の最大の理解者だった弟(正祐)は彼女が実の姉と知らないままこの政略結婚を大いに反対する。然し当時としては結婚適齢期を過ぎていた彼女は育ての親の恩義を感じて引き受けてしまう。
この結婚話には両親が「みすゞ」と弟(正祐)の間を引き分けようとの思惑もあった。
その頃「みすゞ」の長兄堅助は書店経営の修業の為上京したが関東大震災に遭い失敗した。弟(正祐)も「みすゞ」の結婚に失望して置手紙を書いて上京してしまう。(大正15年)そのとき「みすゞ」は弟(正祐)に実は本当の姉である事を告白し「私の好きな人は居るのよ、黒い着物を着て、長い鎌を持った人なの。」(死神のこと)と答えている。一時人生を諦めていた彼女だったが後に一人娘が出来てから再び詩想は膨らんできたのだった。
こうして書店の経営を任せられた夫、宮本は女に好かれるタイプの男で既に心中未遂事件で熊本の実家を勘当されていた。彼は大変な放蕩者で義父松蔵は遂に離婚を命ずるが既に妊娠していたので「みすゞ」は夫とともに家を出ることになった。そのとき夫から悪質の淋病を伝染されていたが職を失った彼らには病院に通う費用に不自由するようになっていた。
その頃尊敬して止まぬ西条八十と下関の駅頭で束の間の面会を果たした。(昭和2年)両者とも非常な感動振りだったという。西条八十は「彼女は駅の一隅に、裏町の小さな商店のお内儀のようなとりつくろわぬ頭髪に普段着のまま1〜2歳の我が娘を背負っていた。然しその容姿は端麗で眼は黒曜石の様に輝いていた。寡黙でその輝く瞳のみが物を言った。連絡船に乗った後暫く白いハンケチを振っていたが間もなく混雑の中に消え去った」と記している。この出会いの感激の後、張り切って更に詩に打ち込もうとしていた矢先に夫から詩作と友人との交友を禁じられてしまった。以後彼女の美しい輝く星の様な詩の発表はなかった。西条八十がフランス留学に行き、最大の後援者を失い「みすゞ」の投稿も少なくなっていた。
「みすゞ」は持ち前の優しさと広い心で夫に接していたが夫の放蕩はいよいよ激しくなり遂に正式に離婚することになったが夫から娘の引渡しを強要される。彼女は近所の三好写真館で最期の写真を撮り、その夜、娘とゆっくりと風呂に入り気に入った沢山の童謡を聴かせて、後では家族と桜餅を食べながら「今夜の月は綺麗だから嬉しいね」「今夜の月のように私の心も静かです」と呟いた。そして娘「ふさえ」の顔を見つめて「可愛い顔をしているね」と言いながら、その夜カルモチン自殺を遂げたのである。憧れの西条八十と会ってから3年目(昭和5年3月10日)のことである。死ぬ直前に両親に「主人と一緒でも他に浮気をする、私にはそれだけの価値が無かった、一緒に居る事は不可能だった」と告白して「我もまたもの憂いこと多くして、一語も録せざること多し」で終っている。甚だ意味深長。
26歳、今からという人生を締め切ったのである。彼女の自殺は夫に棄てられたことでなく愛する娘を夫に奪われることに対する抵抗であった。美人薄命とはこのことか。彼女は最期に「きりぎりすの山登り」を書いたが「童謡で書いた遺書」だと言われる。
最初「みすゞ」が母親により発見された時は未だ温もりがあったそうだが呼ばれた医者が掛かりつけの産婦人科医だったという。内科または外科医だったら又違っていたかも知れない。思い掛けない事ながら誠に惜しい事をしたものだと思う。
(1)鯨 法 会
鯨法会は 春の暮れ
海に飛び魚 採れる頃
浜のお寺で なる鐘が
揺れて水面を 渡るとき
沖で鯨の子が 一人
その鳴る鐘を 聞きながら
死んだ父さま 母さまを
こいし こいしと泣いてます
海のおもてを 鐘の音は
海の何処まで ひびくやら
(2)大 漁
朝焼け小焼けだ 大漁だ
大羽鰯の 大漁だ
浜は祭りの 様だけど
海の中では 何万の
鰯のとむらい するだろう
(3)お 魚
海の魚はかわいそう
牛は牧場で飼われてる
鯉もお池で麩を貰う
けれども海のお魚は
なんにも世話にならないし
いたずら一つしないのに
こうして私に食べられる
ほんとに魚はかわいそう
「みすゞ」の詩は500篇以上もある。とても記載しきれない。その頃西条八十は「みすゞ」の詩は一度読んだだけでスウッと心の奥底まで染み込んで人の心を浄化してくれると褒め称えた。そして今頃は美しい羽の生えた天使になってどこからか私を見てニコニコ笑っていることと思いますと締めている。
私は数年前展覧会で200号の大型の日本画の鰯の大群の絵を見たが、それに書かれた「大漁」の詩を見て彼女の全作品に大いに感動したのである。
(彼女の没後、一人娘「ひさえ」については(U)参照)
編集委員会註:「薄幸の童謡詩人金子みすゞ(U)」は次号、第9号に掲載を予定しております。

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