或る日、「恩師」とはどんな人を言うのだろうと考えて、国語辞典を4冊程出して調べて見た。次のような説明であった。
@ 教えてもらった学恩のある先生。
A 習った恩のある先生。
B 昔教わった先生。
C 教えを受けた恩のある先生。
D 教えを受けた恩義ある師。
E 教えを受けた先生。
F 恩義を受けた師匠。
学校で勉強を習っただけの先生は、恩師とは言いかねる。先生の気持の優しさ、生徒への思いやりが伝わってくる先生を恩師と言うのだろう。そうするとBEを除いたものが恩師という言葉に当てはまるのだろう。
私は、昭和12年4月、福岡県荒木村の荒木小学校へ入学した。3クラスあるうちの男子だけの一組だった。担任は内田先生という背の高い男の先生だった。
私は小学校へ上がる前から家で壁に向かって逆立ちの練習をしていた。が、足底が壁まで届かない。母が「怪我しないようにね。それから襖や障子を破らないようにね。」と言った。
5月になって大分、学校の生活にも慣れてきた。そろそろやって見るかと考えた。黒板側の教室の入り口と黒板の端との間が板ばりで何も置かずにやるのには丁度いい場所だ。
或る日の休み時間、試しに逆立ちをやってみた。やっぱり足が届かなくてどてっと膝から床に落ちる。畳と違って痛みが強い。それでもどうしても逆立ちが出来るようになりたいので、休み時間ひまがあれば一人でやっていた。2週間位経った時、ある2人が「僕たちにもやらせて。」と寄って来た。「此の教室は皆の物だからやりたい人は誰でもやればいいよ。」と私は答えて3人で始めた。まだ誰も出来ない。
6月初め先生が新しい畳を1枚持って教室へやって来られた。何に使われるのだろうと思っていると、僕達が逆立ちをする処の床に横にして入れられた。教壇と入口のドアーとの間にびしりと入った。「ここで逆立ちをしなさい。これなら痛くないだろう。」とおっしゃった。逆立ち用だったのかと僕達は嬉しくなった。
帰ってこの事を母に話すと、「優しいいい先生だね。」と言った。「こんな処で逆立ちなどするんじゃない。危ないじゃないか。」と怒る先生もいるかも知れぬ。そう言う先生とくらべれば、この内田先生は恩師の名に値いする。然し惜しむらくは夏休み中に肺結核が発症し2学期から休職された。秋の遠足の時、先生の家の傍を通ったが、先生達だけお見舞に行かれ、児童は川べりの公園で待っていた。我々が2年生になった春、先生は亡くなられたそうだ。
2学期の9月・10月は教頭先生が教えて下さった。10月から女の代用教員が来られ教えられたが2人については、はっきりした記憶がない。唯1つ女先生については覚えている事がある。
3月の初め、昼休み女先生が教室へ来られ「古賀君、筆箱と下敷を持って職員室へ来なさい。」と言われた。彼は言われた通りにした。古賀君の家は田ん圃の近くにあったが、農家ではなかった。どこかの会社のサラリーマンで大地主であるような感じだった。勉強もよく出来て、私の住む社宅とも近かったので、2人は仲良しであった。暫くすると亦女先生が来られ、「西橋君、君も筆箱を持って職員室へ来なさい。」と言われた。職員室へ行くと、古賀君が先生の椅子に坐って、机の上に筆箱と下敷を置いている。向こうの方には、他のクラスの児童も坐っている。各学年3クラスあるので、各クラスから2人ずつ集まって、1年生だけで6人いるわけだ。やがて用紙が2枚ずつ配られた。みると、算数と国語のテスト問題だ。「1枚を30分ずつで終って下さい。」と教頭先生が言われた。私は算数から始めた。
3桁の足し算と引き算だったから簡単に出来た。国語を始めた。真ん中まではわりとすらすらと来た。真ん中に一寸と考える問題があった。2〜3分考えたが答を思いつかないので先へ進んだ。一応済んだので真ん中の問題へかえった。(○○○月が山の上へ出ました)○○○へ当てはまる文字を3つ入れるのだ。色々考えるが適当な3文字が浮かんでこない。その時、(まるい)だと閃いた。これで全部書き終った。まだ時間があったので、国語と算数をもう一度見直した。間違いなさそうなので時間が終るのを待った。
このようなテストの時、似たような学力の子がいれば、先生は家が豊かな方の生徒を選ぶ癖がある。古賀君の家はお父さんが町内会長をしているが、私の父は製糖会社の一工員に過ぎなかった。(つづく)

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