緑陰随筆特集
阿 蘇 山 で 遊 ぼ う ! − 阿蘇100キロを再び走る − |
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西区・武岡支部
(もりやま耳鼻咽喉科) 森山 一郎
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「もう約束の時間だから帰るぞ」
「あと少し、遊ぼうよ。だって楽しいんだもん」
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<写真1>スタート前。比較的リラックスして号砲を待てた。
胸中もちろん不安はあるが、今回は出来るだけ楽しむため
にやって来た。そのために苦しい練習にも耐えた。
整骨院にも通い体調を万全に整えてきたつもりだ。
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遊び盛りの小学4年生の末っ子と、公園で遊んでいたときのことだ。野球もやった、サッカーも一緒にした。そして、約束の帰る時間になったので、そう言って後片付けを始めたのだが、まだまだ遊んでいたいと言い張るのである。さんざん遊んだし、もう夕方の5時を回った。それに、こちらは疲れて飽きてしまい、これ以上付き合うのも億劫になってきた。すでに、取り決めた時間が来たので、それを口実に早く帰りたかったのだが、子どもは無邪気で、いま楽しいと感じていることに固執し、なかなか帰ろうとしない。そういえば、いつからだろうか?何時間も夢中になって遊ぶということをしなくなったのは。最近はゴルフも麻雀もやらなくなった。壮年サッカーでたまに汗をかく程度で、何時間も遊び楽しむ機会は殆んど皆無だ。50歳になった今年は転機の年と位置づけている。人生の後半に入り下り坂に居る。原点に返って本当にしたいことをしよう。論語でも「五十にして天命を知る」とある。天命とは何か未だよく判らない。とにかく、何でもよいのでやるだけやってみようと思い立って望んだのが、「阿蘇カルデラ100キロスーパーマラソン」への5年ぶりの挑戦であった。そして、阿蘇の大自然を楽しみながら走り、学童にもどった気分で10時間以上阿蘇を望みながら【阿蘇望(あそぼう)で】遊ぼう!洒落にもならぬが何か得るものがあるかも知れない。
<0キロ・スタート時点>
南阿蘇ウィナスにまたやってきた。入梅したその日、篠つく雨の中、鹿児島を午前0時半に出発して午前3時に到着した。5年前のことがやたら思い出される。前回はフィニッシュした時よりもむしろスタートの第一歩に感動したものだ。千里の道も一歩からとの思いが強く、胸が詰まり、不安で仕方がなかった。「えぇいままよ」という気持ちで走り出したのを思い出す。今回は、前回ほど緊張はしていないが、それでも第一歩には特別な感慨がある。スタート5分前の脈拍72(平常時60)。まずまずのリラックスだ。友人と来ている選手が多いのか、周りでは和やかに会話を楽しんでいる。皆ベテランで100キロに走りなれていてタフそうだ。一人で参加の小生は少し心細い。でも楽しく阿蘇で遊ぶのだ。そのためにここまで練習してきたではないか。100キロを遊ぶなんて洒脱な数寄者だと皆からあきれられたけど、好きだからしょうがない。自分に自信をもて。そう言いきかせて号砲を待った。6月2日午前5時はまだ真っ暗闇だが、暗く重い雲が、空低く身に近く感じとれる。幸いまだ雨は降ってこない。さあ鬨を上げ先駆けの武者の如くいざ行かん。
朝ぼらけ 阿蘇100キロの 第一歩
数寄心地(すきここち)なれ いざ踏み出さん
<24キロ地点>
やはり予想したとおり峻険な山道である。400メートルの高低差を一気に駆け登る高森村山の自然道だ。山麓では野アザミがとても綺麗で阿蘇に良く似合っていた。太宰治は、「富士には月見草が良く似合う」と言っていたが、阿蘇には断然むらさきに咲き誇る野アザミだ。走りながら気付いたことだが、ここ南阿蘇は、パン工房とペンションとカフェが多いようだ。いつかまた南阿蘇を訪れ、マラソンと関係なく、温泉につかってゆっくりとした旅行をしてみたい。きつさを紛らすために、あれやこれやと楽しいことを考えながら登っていくと、いつしか山頂近くになった。ここまで来ると、花をつける野草も殆んどなくなり、牧草だらけとなった。霧も徐々に濃くなり、視界も悪く遭難という言葉が一瞬頭をよぎるほどの悪条件になった。でも、尾根伝いにしばらく走っていくうちに天気も回復してきた。前半最大の難所を通過した安堵感も手伝ってか、周りの景色を見渡す余裕も出てきた。けたたましい鶯の声がこだまする。野性の鶯は、声はするけど姿を見せず警戒心が強いのだが、この時ばかりは小丘から小丘に頭上を飛び渡る姿が、生まれて初めて見てとれた。遠くからカッコウの鳴き声もする。久しぶりに「カッコウ…カッコウ…」と山間にひびく音を聴くことが出来た。鳥たちの爽やかな鳴き声に背中を押されて急峻な山道を登れた気がした。これは、なにかの瑞兆かしら。
山鳥の 我がために啼(な)き はげまされ
背中押されて 山路をのぼる
<50.8キロ地点・中間地点の休憩所>
フルマラソンの距離42.195キロを4時間21分で通過し、ここ波野休憩所に5時間30分で着いた。時刻は午前10時30分だ。前回は、ここでくつろぎ過ぎて、おにぎり、唐辛子をいっぱいかけた蕎麦、果物、はちみつ、スポーツドリンクとむやみに腹ごしらえしたら、もう走りたくなくなった。何とか気を取り直し走り出したものの、60キロ過ぎからお腹と足の痛みが始まり、地獄のような後半だった。同じ轍は踏まないようにと心掛け、大好きな蕎麦も取らず、立ったままでおにぎりを2個ほおばり、Tシャツと靴下をすばやく着替え、未練を残さず5分後には再スタートした。やがて問題の60キロ地点にさしかかった。思ったよりスムーズに事が運んでいたのだが、徐々に、右足の拇指の付け根が痛み始めた。これはまずいぞ、前回の二の舞か。幸い、右足を地面から離すたびに足指を曲げる動作をしていたら何とか痛みがやわらいだ。その直後、この変則フォームが災いしたのか、今度は右臀部の筋肉痛が出現した。ここの痛みは初めての経験だ。でも、これもいつしか引いて来た。よほど僥倖に恵まれているに違いないと感じたその後、いよいよ持病とも言える左膝と左足底の痛みが出た。更には左足甲の痛みも伴った。とうとうここでリタイアか。それでも、下り坂をゆっくり慎重に、登り坂を大胆に、自分流の足に負担のかからない走法を続けていくうちに、徐々に痛みに慣れてきた。これぐらいなら、なんとか最後までいけそうに思えた。大会直前のテーピングが良かったのか、それとも生まれて初めて整骨院に行って筋肉をほぐしたのが良かったのか。いやいやそれだけではない。家族や小院の職員たち、その他繋がりのあるみんなが、蔭ながら見守り応援してくれているせいなのだ。小生の胸は、ありがとうと感謝したい気持ちで溢れた。
山深み 痛みを押して ただ走れ
ひとの情けに むせぶ涙ぞ
<70キロ地点>
まだまだ残り30キロもある。右腕が痛い。何か重たいかばんを持って走っているようだ。ふと気づくと、無意識にかばんを放り投げる恰好をしていた。まるで、自分が自分でないような現実離れした感覚であった。なんだかこのまま意識が遠ざかっていく気がする。以前女子マラソンでアンデルセン選手が、極度の脱水でふらつきながら、かろうじてゴールした姿とイメージがダブった。この阿蘇の地で行き倒れとなるのだろうか。ここで死ぬとはどういうことなのか。いやここでなくてもいつか死ぬべきときが来るが、そもそも「生きて死ぬ」とは何を意味するのだろうか。ひとが生まれてきたことは殆んど奇跡に違いない。が、死ぬのはいとも易い。肉体が朽ちて阿蘇の土となるのは判る。でもこの魂はどこに行くのか。阿蘇の山神様、出て来て教えておくれ。
「おまえのちっぽけな頭脳では到底判るまい。判ったときは死んだときだ。今は行動すること。一歩一歩、足を前に出しただ走れ!」
次の補給地点で、レモンにかぶりつきその強い酸味で意識を清明に回復させた。沿道の子どもたちの声援が聞こえる。その子らとハイタッチを交わして元気をもらい、途半ばでは決してくじけぬぞという勇気が湧いた。そして、励ましの言葉をいつも投げかけてくださる親切なボランティアの方々にも感佩の至りだ。さあ、いよいよ最後の難関たる80キロ地点のだらだら続くのぼり坂に臨む。
この坂の途中で本レース2回目の歩きとなった。もちろん想定内である。走っては歩き、歩いては走りし、やっとの思いで山頂に達した。そこからの見晴らしはすばらしく、遠くには今走ってきた阿蘇の峰々が聳え立ち、近くは何処までも続く牧草、草千里で覆われている。実にのどかで牧歌的である。前世が羊飼いの少年であったのかしらと思えるほど、望郷の懐かしさを覚えた。しかし、現実は厳しく、足は痛くまるで棒のようだ。三重の鈴鹿山で白鳥になって昇華したヤマトタケルの三重に折れた足を思った。
棒の足 山渡り来る 薫風(くんぷう)に
あらたここちす 歩き走りす
<100キロ・ゴール地点>
90キロ過ぎてからはもうこっちのものだ。俄然元気が出てきて、最後の10キロは、62、3分で走りきった。これは、スタート直後の10キロと同じペースだ。自分でもこれほど体力が残っていたとは信じられない。予想を上回るタイムに、この2ヵ月間の練習が思い出された。全ての練習メニューは自己流で、行き当たりばったりが多かったが、とにかく外来診療が終わってから就寝までの間、練習時間を割く工夫をした。ゴールデンウィーク中は家族旅行をしたが、一人早起きして朝食までの間に15キロから20キロを走った。一日30キロを走ると決めても25キロあたりで脱落したこともあった。どうしてここまでこだわるのだろう。とことんこだわり、頑なにこだわり、黙々と修行僧のように練習した。全てこのゴールの瞬間の感激を味わいたくて、こだわって来たのだ。まさに今、思い描いていたドラマ(多分ハッピーエンド)が完結する。
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<写真2>ゴールした瞬間。嬉しくて両手を挙げてポーズをとった
。一ヵ月間のきつかった練習を思った。支えてくれた多くの人々を
思った。決して自分ひとりの力だけで達成したのではない。どこか
で繋がっている人みんなに感謝の気持ちでいっぱいになった。
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前回より37分も短縮して11時間9分26秒(50キロ:5時間25分8秒、50キロ〜終点:5時間49分18秒)でゴールを切った。ほんの刹那であったが心が身を離れ、阿蘇の山守(やまもり)に会いにいった。亡くなった父の姿も見えた気がした。なんだか目頭が熱くなってきた。きつかったけど楽しかった遊びももう終わり。足を引きずり温泉につかり、ビールをあおり、やっとリラックスできた。これからは、我慢していたお酒も飲める。走っている間、50歳という年齢を思った。体力的に急に衰え老けるかと思っていたが、そんな変化はなく、まだまだやれそうだ。老いて枯れるのが、かっこいいのではない。50歳を境に、人生下り坂と思っていたが、人生に下り坂などない。いつまでも、上り続け楽しんで、積極的に行動しよう。いろいろと悟ったようで、まだ悟りきれない寂しさも少しは残るが、でも、走る前とは何かが明らかに違う。天命を未だ知らずとも、それがどうした。何とか50歳代も切り抜けられそうだ。そんな感じだけは会得したようだ。感極まれば極まるほど、三十文字(みそもじ)あまり一文字(ひともじ)の歌は簡素化して単純になってしまう。許されよ。
阿蘇山を 走ると決めた その日より
今日も練習 明日も練習
100キロを 完走したぞ 100キロを
父に知らせん 母に知らせん
<後日談>
改めて阿蘇カルデラスーパーマラソン100キロを振り返って、阿蘇の山々を上り下りしながら走り切ることは本当にきつく、足は棒になり腕は鉄になったようであった。しかし、肉体的に如何に辛くても、心は比較的清澄で、むしろ自然を楽しみ、動植物を愛でる余裕もあった。南阿蘇では野アザミの美しさを堪能し、引きも切らずに声援を送ってくれた鶯など山鳥のさえずりに心浮かれた。そして、阿蘇の精霊・山神たちがいつもどこかで見守ってくれているのを感じながら、霊気を体いっぱいに浴び、草葉の陰の父と語らい、山岳信仰や修験道の創始者といわれる役行者小角(えんのぎょうじゃおずぬ)の世界に遊んだ。一ヵ月前から続いていた右頚部の凝りが、阿蘇から帰ったら不思議となくなっていた。気分も実に穏やかである。楽しい夢を見て、充分な睡眠をとった後の、すっきりと目覚めた感覚に似ている。心配していた「燃え尽き症候群」にも陥っていないようだ。そして、些細なことに余り拘泥しなくなった。地球の大気が、悪臭を拡散・分解してくれるように、阿蘇霊山の息吹をいっぱい吸うと、悪霊を追い払い、心のモヤモヤ、潜在的な不安などを雲散霧消してくれるようだ。そしてまたいつの日か、阿蘇山が遊ぼうよと、誘ってきたとき、再び戯れ走るのだろうか。行基菩薩の歌が頭の中でこだまする。
山鳥の ほろほろと鳴く 声聞けば
父かとぞ思ふ 母かぞと思ふ
[行基:玉葉集・釈教]

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