随筆・その他

    永 吉 町 陸 軍 墓 地
      戦 没 者 墓 地
中央区・中央支部
(鮫島病院)   鮫島  潤

 永吉町西ヶ迫地域は全山緑に囲まれた里山だった。その昔郷土部隊四十五連隊が管轄していた陸軍墓地がある。静かな広場は掃除の筋目も正しく清潔に整備されている。鶯の綺麗な声も聞かれて気持が良い。公園敷地には日露戦争(596柱)済南事変(3柱)満州事変(45柱)などの記録がある。以後支那事変、大東亜戦争までの戦没者の墓が整然と並んでいる。日清戦争当時は四十個連隊は編成されていなかった。戦役、事変、戦争と使い分けているのが面白い。また戦死、戦没、戦病死、殉職、忠死等と分類してある理由は何だろうか。支那事変、大東亜戦争になると戦没者が急速に増えたせいか大型の記念碑になって陸海軍併せて7万3千柱を合祀し戦没者墓地と改称している。墓地の裏山を攀じ登ると高い崖になっていて広い錬兵場で新兵さん達がしごかれているのが見下ろされるものだった。現在ではこんな所にと思われるような崖の際にも広い練兵場にも木造の民家や鉄筋の学校がギッシリ立て込んでいる。私達は一中時代(現鶴丸高)、陸軍記念日等には重い三八銃を担いで参拝に行くものだった。周りの桜が満開だったのを覚えている。その頃一中の配属将校の一人は鈴木重寛大尉だったが非常に温厚で人望の厚い方だった。残念ながら富山丸(8千トン)で南方に輸送の途中徳之島亀津沖合いで米潜水艦の雷撃を受け3千7百人の将兵と共に無念の戦死を遂げられた。私は後に徳之島の現場に行ったが珊瑚礁に砕ける波と立派な慰霊塔に感激した。
 戦没者墓地の墓は永吉公園の地続きの斜面に何段かに分かれて立っていて、軍隊の序列に従って下の段が一等卒、二等卒となっている(昔の呼び方)。その上の段は上等兵、下士官達となり。最上段に将校尉官、佐官クラスが並んでいる。尉官クラスのなかに一等軍医桜井栄次郎、明治38年3月16日戦病死となっていた。3月15日が奉天大会戦で日本軍がロシア軍を殲滅した日なのが特に印象に残った。また特務曹長の墓が2基(野田、永野)あったことだ。曹長(准尉)と言うのは軍隊のなかの叩き上げの超ベテランで将校以上の実力を持っていたのを思い出す。また墓ではないがブーゲンビル生存者が建てられた小さな石碑があるが碑の持つ重みは石の大小ではない。心に感ずるものがあった。

    


 永吉墓地のほかに戦死者を顕彰する碑は照国神社にもあるがそれは島津義弘が慶長4年に朝鮮戦役の後、敵味方戦死者の供養碑を紀州高野山に立てたのに習って造られたものでその大きさ形式を同一にしたそうだ(勝目清前市長談)。私は何故か戦前祗園之洲に並んでいた官軍墓地が忘れられない。永吉の陸軍墓地同様に整然とした墓碑の列は大きな老松の並木と薩英戦争砲台跡の公園全体を引き立てる大切な役目をしていたのに何時の間にか大規模な塔碑になって整然と並んだ墓石はなくなっている。そしてこの墓地が西南役の政府軍の海陸将校下士1,200名の戦死者だけになってその頃賊軍と言われていた西郷軍が含まれていないのは腑に落ちない。
 それは兎も角四十五連隊が管理していた永吉町の陸軍墓地は四十五連隊戦友会と鹿児島市勝目市長との間に永久に墓地の維持管理を担当するという約束で無償返還されて今日に到っている。そして公園は鹿児島市の公園緑地化課が管理しているが整備状況は非常に良い。
 一番目立った場所に牛島満大将の碑もあるが軍人は勿論沖縄県民の犠牲に特別の配慮を込めて「魂かえり、魂かえりつつ皇国護らむ」と刻まれている。之は沖縄の海軍司令長官大田少将が多くの県民の犠牲に対する配慮を頼むとの遺言の電報があったのを海軍壕で見たが併せて両者の人間味が伺えて身につまされる思いがする。
 昭和44年に連隊の偕行社(将校集会所)の建物を半分墓地の一隅に移設して戦没者記念会館が建てられ遺品や遺影が陳列されている。先の鈴木大尉の肖像もあり非常に懐かしかった。昔一中の配属将校をしておられた牧野四郎中将の決別の辞もある。また、意外に感じたのは南京事件の詳細な記録が日記とか報道新聞記事のスクラップとして非常に分厚い閉じ本で大量に残され、専門家の資料として利用されていることだった。
 あの静かな環境に眠る先輩達の眠りを覚まさないように見守って挙げたい、周囲に人家が建っているが祗園之洲の官軍墓地みたいに此処の碑が消えることがないように願いたい。又殆どの墓石が幾種類かの苔に覆われて戦死者の名前も剥落しつつあるが今で何らかの対策は無いものだろうか真剣に考えさせられる問題だ。




                               陸軍墓地の展開図




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