先の大戦末期、旧陸軍航空士官学校58期生の、赤トンボ操縦術入門を紹介しよう。
A.『航空士官学校の巻』
1. 空中勤務者適性検査・昭和18.5.15より
先ず身体検査と心理検査に分れ身体検査には眼、耳鼻、循環系統等が重視され、視力、色神、欧氏管、血圧等が検査されたが、何と言っても特色は心理検査である。先ず一斉にクレペリン検査を受けさせられた後、運動機能、神経反射機能等を測定する独特の検査が行われた。例えば操縦桿と踏棒のある台に座らされ、インクを付けた針が操縦桿を動かすと上下に、踏棒を踏むと左右に動き、手足を動かして針で図上に決められたコースを辿るテスト。又、前の小窓を瞬間的に通過する4桁の数字を読み取るテスト等である。
2. 空中体験・18.10.17より
飛行服に飛行帽、格好だけ一人前のパイロットになって双発練習機に搭乗。滑走がはじまって地の草が後へ後へと流れ、やがてそれが絨毯のように見えたとき、身はふわりと空中にあった。飛んだ、飛んだ。胸は鳴り血は踊った。地図と対比して何処を飛んでいるのか見定めるのが課題だったが、皆目解らない。道路は白い糸、地図にあんなにはっきり書いてある鉄道は見分けもつかぬ細い黒筋。さっぱり見当もつかぬ間に機は旋回する。とにかく美しい。突然、区隊長の声「飛行機の脚がおかしい。出ない。不時着するからみんな落着け」。たちまち笑顔が消えた。見る見る高度を下げ滑走路を遠く離れた草の上に土煙をあげて胴体着陸。一同、青ざめた顔で機外へ出る。常に、快楽は危険と隣り合わせにある。操縦は「離陸と着陸が総て。稀な一例を紹介した。」
3. グライダー訓練・19.5.6より
「イ」炎天下の苦行、滴り落ちる汗と、肩に食い込む機体の重さ。初級グライダーを担いで、飛行場地区を走らされた。
「ロ」乗る本人は得意気ながら、両端をゴム索で引っ張る仲間の方は汗みどろ。『イチニッイチニッ』の掛声がダンダン早くなるにつれ、操縦桿を握る手が汗ばむ。
「ハ」頃やよし、区隊長の合図で機尾を支えるロープが杭から放される。すうっと身体全体が浮き上がる感じで、大空目掛けて舞い上がる、といっても、高度は僅か数メートル。ここまでは爽にして快。
「ニ」数秒間の空の漫歩を楽しみ、真直ぐ降りられれば上の口。桿を引き上げすぎて失速、向かい風にあおられ、後方に一回転して転覆…など続出。勿論、機体を壊したりした者は、たちまち操縦不適の烙印を押されたことは必定。こんな風景が珍しくない。
4. 操縦準備教育・19.9.1より
「イ」絶対無事故の自転車による操縦教育。場所は修武台飛行場格納庫前の一隅。「w候補生、1番機操縦、課目場周離着陸」と型どおり申告して愛車にまたがる。白墨で描かれた場周経路を踏み外さぬよう慎重に走る。自転車には木製の計器板と、風防窓枠が取り付けられてあった。
「ロ」旋回地点に至れば「第1旋回高度○○メートル、速度○○キロ」と大声で呼称しながら左へ方向転換、かくして飛行場の上空ならぬ地上を一周、飛行訓練を無事終了という次第。血の一滴にも比すべき航空機燃料が松の根っこから精製した松根油などを使用せざるを得なかった苛烈な戦局。ツンボ桟敷が漫画チック。
5. 操縦教育・19.9.27以降
「イ」99式高等練習機による基本操縦が行われた。が、低翼単葉固定脚「主脚スパッツは外されたまま」の特徴ある後退翼で、視界良好操縦性も良かったが、機首を上げると翼端失速を起こしやすく、主翼端前縁にスロットを付すか又は翼端で2%の捩り下げをつけてあったが着陸時左翼端失速のため接地に失敗しやすかった。
「ロ」10月より12月までの3ヵ月は空中操作、場周離着陸で、1回約8分間を要した。11月下旬から逐次単独飛行に移り、平均所要時間、約14時間で全員合格。
「ハ」20年1月以降は戦闘、単襲、双襲、重爆、司偵の各分科に分れ、それぞれの分科の特徴を生かした操縦教育に移行。特殊飛行『99高練では垂直旋回、宙返り、上昇反転、急反転のみで痛快極まりない課目』、編隊飛行などが組み込まれた。
「ニ」1月に入り航空燃料節減のため50%アルコールを混合したものを使う事となり、気化器のノズルをこれに合わせて取り替えた。アルコール混合燃料はエンジンが冷えやすく、宙返り後半の下降時などエンジンが息をつき、あわててレバーを動かすこともしばしばだった。筆者もこのために麦畑に不時着の憂き目を経験した。卒業までの総飛行時間、平均約50時間だった。続く。
B.『実施部隊の巻』
第26教育飛行隊での教育訓練過程「満州・湖南営」
昭和20年
4月25日 慣熟飛行開始、離着陸。
5月3日 アルコール燃料へ切り替えに関する学科。
5月5日〜21日 分隊教練編隊飛行開始。
5月8日 防空壕掘り。
5月12日 基本戦闘「追従運動」。
5月15日 戦闘隊形訓練。
5月18日〜21日 前方接敵後上方攻撃。二式高練未修飛行。
5月23日〜30日 小隊教練。
6月8日 九七戦未修飛行、離着陸。
6月10日 空中操作。
6月11日〜21日 分隊・小隊教練。
6月22日〜23日 特殊飛行。
6月24日〜28日 前方接敵、後上方攻撃。後上方射撃予行。
6月30日〜7月1日 後上方射撃訓練。
7月5日〜20日 基本戦闘「高位戦1対1」、「低位戦」。
7月21日〜23日 単機戦闘「低位戦」「高位戦」。
7月25日〜30日 中隊教練。
8月1日―編成換え。この理由には諸説紛々、憶測デマが出現したが出所不明のまま。この後、旬日足らずにして、ソ連邦のわが国に対する突然不法の宣戦布告、悲劇が始まる。結局、私の総飛行時間はこの時約100時間で大空の夢は閉じられた。同期58期生総数2,400名、内陸軍士官学校1,200、航空1,200。後者は夫々、操縦、通信、整備に分れ、前者が又戦闘、偵察、爆撃分科に、そして戦闘機分科190人余、『内訳、遠距離70、近距離戦闘120』私は遠距離戦闘機分科の一人、敵戦闘機と空中戦を交える技の習得に専念していた。長年の夢が大空に咲きそして散った時期である。

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