随筆・その他
脳外科の父 ハーヴェー・クッシング
外科医にして著述家であり美術家であった男の物語
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エリザベス・H・トンプソン 著
西区・武岡支部
(パールランド病院) 朝 倉 哲 彦 訳
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第14章 ドッグハウス
世紀の変わり目にニュー・ジャーシー、モンクレアの洗礼派の牧師が、ミネアポリスにいた頃の会衆の一人であった医学生にオスラーの「内科学の理論と実地」を紹介された。彼はその文体に魅せられ、細部に至るまで全巻を読み終えた。同時にオスラーのフランクな意見を知って驚いた。医師が実際に治せるのはほんの4つか5つの病気であって多くの場合には患者の苦しみを和らげることと手厚い看護をする以外に何も出来ないというのだ。そこで彼は世界を通じて医学の科学的な研究が顧みなれていないことを知り始めた。ベルリンのコッホ研究所やパリのパスツール研究所などは稀な場合でパスツールの発見はフランス国民が普仏戦争で費やしたよりも多くの利益をもたらしていることを知ったのである。
この男は牧師フレデリック・T・ゲーツであり、ジョン・D・ロックフエラーの慈善事業顧問であった。オスラーの教科書を読んだことに基づいて彼はロックフエラー氏に医学研究のためのロックフエラー研究所を育てることを進言した。それに引き続いてロックフエラー財団となった;医学の世界におけるこのような運動が始まり1902年=明治35年にはワシントンにカーネギー研究所が設立されるに至った。アンドリュウ・カーネギーが「医科学にとって重要な生物学的ならびに化学的研究の支援」のために10,000,000ドルを寄付したのである。
科学を支援するこのような博愛主義的な研究所が設立される一方で、医学校は病理学、生理学、細菌学のような研究室科学が発達しいまや医学校のカリキュラムの中の主要な部分を占めるようになった事実と直面した。そして研究室での科学的発見とその病棟における応用との間のギャップは急速に広がることになった。こうして臨床教授が研究室での成果を患者に用いられるように病院の変革をもたらすのに真っ先に立って働かねばならないことが明らかであった。ルエリス・バーカーは彼がクッシングに書いた手紙でこう言っている:『将来の臨床家はまったく新しく生まれ変わらねばならない。われわれは新しいワインを古い壜に入れるわけには行かないのだ。』
ハーヴェー・クッシングは研究室での実験の価値を固く信じていたが、すべての医学の第一義は患者の安泰にあることを見逃がすことなく、もっとも現実的な方法で問題にアプローチした。1902年=明治35年5月彼の教育歴のごく初期に企画委員会に覚書を提出した。その中で学生に医学を実地修練させるには理論と臨床とを統合させるように準備するという彼の理想を述べている。彼のいくつかの提案のうちもっとも重要なのは外科手術の課程(包帯の適用など)は第3学年の始めからスタートし外来や手術室での小外科を準備するべく学生に動物や死体での実習をさせるべきであるとしたことであった。この科目には一年を通じて週一日の午後(できることなら土曜日に)をあて、選択制にすることを提案している。この覚書に対しては総長のダニエル・C・ギルマンの机から直接返事が来た:『貴下の提案は大きな重みがあります。』と述べ、そして問題について話し合いに来るように求めている。
クッシングの提案の重要な点は採択され10月には第3学年クラス44名の男女学生のうち40名までがクッシングの手術外科のコースを選択した。ケイト・クッシングが全般の反響についてカーク博士に報告している:『ハーヴェーは今日から新しい一団の学生を指導しての臨床実習を始めました。彼の行なったコースは評判がよいようです。みんな彼の研究室で勉強をしたがっています。』クッシングは反響には彼自身喜んでいるが、少人数のほうがもっとやりやすいと父親に述べている。
大勢の学生を指導した彼の苦労はその年の暮れに報われた。第3学年のG・レーヌ・タニーヒル2世、W・R・ケロッグならびにジョン・B・カーからクラスを代表して、教え方の独創性、個別的に親密な指導、外科手術の基本的な原理の明快な解説に対してコースの価値にクラスから感謝の言葉を伝えるように頼まれたという手紙を受け取ったのである。
不適当な施設で多数の学生に指導する苦闘を経てクッシングはかねて心に描いていたある計画の実現のためにより活発に動き始めた。6月に父親に書いている:『動物舎を何とか作らせたいと望んでいます。立派なものを作るには10,000ドルくらいかかりますが、作ってもらえるなら仮のものでもいいと嘆願しようと思っています。われわれはよい動物病院を必要としているのです。そこでは患者と同じように動物をケアできて、また獣医術がなされ得るべきです。』彼の父親はすぐに返信した;『犬の仮屋のことだが、数百ドルの援助で済むことなら遠慮なく申し出なさい。』秋に入ってからのクッシングの報告では:引き続いて手術術式のコースを始めることができました――ドッグハウスはまだ建ちませんが望みはあります。』彼の父親は再び援助を申し出た:『ドッグハウスを作る望みとはどんな望みか、もしもH・M・H[ハンナ]氏に頼る心算なら、彼の兄弟マーカスが今日のオハイオの選挙で勝つことを望む。私が少しでも援助できると知らせたことを忘れないでおくれ。お母さんが生きておればきっと援助したに違いない。』
次の年、彼は『依然として望み』があったが依然として待ちの姿勢だった。『貴方に書いてから別の脊髄腫瘍の患者が来ました――症例は2度続くもののようです。また一匹の大きな灰色のグレイハウンドの犬が甲状腺腫を持ってやってきて私が手術術式のコースで金曜日に切除しました。私が新しく始めようとしている「比較外科学」の手始めの仕事としてうまく行ったので非常に喜んでいます。おー!動物舎さえあったら。私は小額ずつ集めて2,400ドルになりました。あと1,200ドル必要です。ハンナ氏に寄付を申し込むのには時期が悪いでしょうか?』
ボルチモアの大火は大学の資産に甚大な損害をもたらした(大学の収入は灰燼に帰した不動産に大きく頼っていたからである)ので、大学資産からの援助を受けることは絶望となった。しかし、ニューヨークのロバート醸造会社のH・M・ハンナ氏とほかの関心ある友人たちが総額5,000ドルの寄付を申し出た。この額を核にして大学が1905年=明治38年に15,000ドルをかけてクッシングの必要と病理学教室の必要に応じた研究所を建設した。幾多の考慮を経て、この「ドッグハウス」は比較解剖学に比肩するもののない研究をしたジョン・ハンターにちなんでハンター研究所と名づけられた。
8月に建物がほぼ完成するときに、クッシングとマッカラムとはラジエーターを天井につけることを決めた。少しでも床面積を確保したかったからであり、またラジエーターの近くで作業をするのはしばしば邪魔だったからである。このアイデアについて父親にどう思うか尋ねている:『これはもちろん試験的です。それにもともと実験研究所なのですから!』
カーク博士はついに彼の経済的援助の申し出を果たす機会を得た。顕微鏡とジョンとウイリアム・ハンターの肖像画――『ホールに掲示して発奮させるためです』を購入する金銭が必要だったのである。クリーヴランドから200ドルの小切手が次の郵便で届いた。
(註1:1912年=大正元年にハーヴェー・クッシングとホプキンスの管理者との間に面白いやり取りがある。というのはクッシングが病院を去るときに顕微鏡を一緒に持っていったのである。彼は陳述している。顕微鏡は彼の父親がくれたものであるから、多少とも自分の物だと思っていたというのである)
12月にはクッシングは次のような手紙を書くことができた:『新しい研究所にはみんなが多大の関心を示しています。新しく独創的な場所が始まったと思います。』
ハンター研究所という名前は狩猟犬で何かするものという誤解を一般にもたれたが、却ってこれがいい結果をもたらした。というのは研究所に犬が集まったからである。ボルチモアの犬族に行われた外科手術はその持ち主が病院自体で受ける手術にも劣らぬものであった。建物は建築学上美しいものではなく、石炭酸の臭いが充満し、それがボルチモアの焼け付くような太陽のもとで一層ひどい臭いとなった。
しかし建物は小柄で疲れを知らぬジミーによって清潔に保たれ医学部の各教室に適宜なサイズの実験用動物を適時に供給する任務が守られた。彼は犬を効果的にあしらったので、研究所の近隣に住む人々から文句を持ち込まれることもなかった。クッシングの言葉は彼にとっては法律であり、たとえば日曜日には仕事をしないようにといわれたときにはジミーは、どんなに急かせる要求があっても勅令を守った。
クッシングはいまや彼の望んだコースに取り組む準備が整った。死体に対する外科経験と麻酔のかかった動物に対する経験とではまるで違ったものだった。研究室が拡大される前ですら、彼は学生に病歴を書かせ、術中のエーテル麻酔の記録をとらせ、術中・術後の記録をとらせ、切片の組織学的検査をさせ、動物が死亡したときには剖検をさせていた。それゆえ、まるで犬が人間であるかのごとくすべての処置が行われたのである。通常、「かかりつけの医者」の話を聞いて患者の病歴を検討し診断が下された。そして、手術が行われたのである。学生は4人一組で働き一人が術者になり、ほかの三人は第一助手、第二助手それに麻酔係を務めた。
クッシングは毎年5月と6月に行われる卒業生(大学院)への手術術式のコースも同じ計画で続けた。彼はこの学級には、かねて懇意にしていた獣医を一人か二人招いた。学生の数を16人に制限して授業料は一人100ドルとした。これで収入は十分となったので大学からの経費500ドルは助手に提供して研究所の決まりきった仕事の幾分かを肩代わりさせることができた。ハンター研究所の最初の外科助手は1905年度=明治38年の卒業生フイリップ・K・ギルマンであった。彼の後にJ・F・オーツチャイルド、ルイス・L・レフオード、サムエル・J・クロウエ、エミール・ゲーチュ、ウオルター・E・ダンデイー、それにコンラッヅ・ジェ−コブソンが続いた。研究所での一年が過ぎたあと、これらのうち幾人かはクッシングの助手レジデントになった。毎年、「比較外科学」のタイトルのもとに報告書が出版された。後年その道で有名になった多くの学者たちの最初の論文がこの報告書にある。ルイス・H・ウイードが後年ハーヴァードで引き続き行った脳脊髄液の古典的な研究をはじめたのも此処であった。脳外科医としてクッシングのライバルであったウオルター・ダンデイが最初の実験的研究を行ったのも、ヴィタミンEの発見者ハーヴァート・M・エヴァンスが研究したのもハンター研究所であった。1908年=明治41年以降は此処で研究した者のほとんどの者が当時クッシングが熱中していた脳下垂体腺の研究の側面の幾分かに関与していた。(つづく)
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