先日映画 〔硫黄島からの手紙〕 を見て感激した。思う事もあるので記述して見たい。知られている通り硫黄島は東京から1,250km、東西8.5km、南北4.5kmの小さな島ながら三つの飛行場があった。
特にサイパンにB29の基地が出来てから敵味方に取って絶対に譲られない重要な基地だった。栗林中将は飛行機を降り着任するとそのまま歩いて島の視察をして地形を頭に入れ、軍首脳部の今までの水際作戦を変更して全島に地下壕を掘るとの意見を固めた。部下将校達は、帝国軍人に穴掘りが出来るか!「我々は穴掘りに来たのではない」と激しく反論したがとうとう全長30km、5,000の横穴を完成させた。之が後に水際作戦を予定していた米軍を大いに悩ませたのである。
陣中で下士官が身重な妻を残している兵に残虐な体罰を加えようとしたのを制止した。かねてから兵の体罰は酷いものだったが将官が兵のことに口を出すなど異例のことだった。しかも自分も狭い壕の60℃を越える熱気と湿気の中で兵達と同じ食事を取り、ぼうふらの湧いた雨水を飲んでいたそうだ。立っているだけでも息が詰まり、苦しい「地獄中の地獄」と言われていた、兵が壕のなかから汚物を汲みだす場面もあった。将官と兵が同じ環境で生活する等少しでも当時の軍隊を知るものには考えられない事だった。兵達は将官の態度に感激して絶大の信頼を捧げ、米軍としては上陸以来5日で陥落させる予定を36日も抵抗して見せたのである、之には米軍も驚嘆して居る。然し栗林中将も最後には「常に諸子の先頭にあり」と兵達と供に戦死された。
彼は戦前アメリカのハーバード大学に留学しカナダにも駐在武官として勤務してその間米大陸を車で横断しアメリカの偉大さを実地に痛感して居た。彼の合理的な考え方が陸軍中枢部から疎まれてサイパンに送られたと聞いた。
栗林中将が着任以来将校たちの反感を抑えて適当に誘導したのが西中佐である。彼は昭和7年(1932)ロスアンゼルスのオリンピックの馬術で金メダルを取りバロン(男爵)西と言われて外交官以上にアメリカ社会との外交に尽くしていた(彼は日本の男爵だった)。彼は騎兵隊から戦車隊長に替っていたが彼のアメリカひいきが軍部中枢に災いして硫黄島に配属されたことは栗林司令官に似ている。二人は仲が良かったが、今でも遺族の交際があるそうだ。
西隊長は劣悪で数も少ない戦車を地中に埋め砲台だけを出して名だだる米軍シャーマンM戦車と対戦して居た。一方米兵の負傷者を丁寧に介抱して居たそうだ。戦死する直前に米軍の友人からわざわざ彼に呼び掛けがあったが応答は無かった。
かくして2万を越える将兵が全滅したのである。しかし突撃玉砕はしなかった、あくまでも栗林司令長官が無謀な万歳突撃を禁じていたからである。このような激戦の地に鹿児島から多くの将兵が参加して居るが、なかでも前県医師会長羽根喜一先生の息子さん(東大医学部出身)が将来を大いに期待されながら軍医として壮烈な最期を遂げられたのを思い出す。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 硫黄島で大激戦が行われている時鹿児島も毎日、朝晩敵機の空襲に悩まされていたのである。そのうえ県下にはマラリア、デング熱が大流行して戦力の衰退に拘わると言うので軍の命令で媒介蚊の分布の調査を命ぜられM教授の指導のもとに指宿、枕崎方面を廻った。県下の蚊の種類は10種に余るが対象はアノフエレス、トウゴウヤブカ、ヒトスジシマカ、アカイエカに絞られていた。夜間牛小屋、馬小屋、豚小屋などを廻り、群がっている蚊を採集する。無用心に懐中電気を灯して航空隊の歩哨や警防団に怒鳴られたり散々だった。軍の調査との証明を出して許された事も有った。採集から帰ると田圃の中の水産試験場の小屋で灯火管制下に黒幕でカバーした遮光幕を降ろした暗い明かりの下で一晩中掛かって成虫の分類をした。食料が無いのでぽろぽろのふすまのおにぎり(小麦からメリケン粉を作る時の麦の皮の部分で鶏の餌だった、然し不味くてぽろぽろしていてもそれが当時我々の大事な食料だった)を教授と分けて食べたりしたこともある。その時海岸線遥か60kmの沖合いに黒島、硫黄島、竹島が並んで見えた。教授は「ほう、あれが硫黄島か、あそこで激戦があるのだな?」と感慨深げに言われる。私は驚いた。日露戦争の時、東大の物理の長岡半太郎教授が戦争があるのを知らなかった、世間知らずだ、特権的だと言われたものだったのを思って感無量だった。今度の場合は鹿児島中が毎日毎晩空襲にやられているのだから事情は大いに違う。そのM教授も永い間九大名誉教授の研究生活を経て故人になられたが、非常に優秀な学者であり人格者だった。今でも枕崎での彼の硫黄島への声が聞こえるようだ。
枕崎沖の硫黄島(鬼界島)は同じく硫黄の沸く活火山だが全く静かな歴史の島で治承元年(1177)鹿ケ谷事件の後、僧俊寛が流刑されたことで有名だ。先年中村勘九郎の野外歌舞伎が行われ銅像も建っている。また安徳天皇(元暦2年、1185)が壇之浦から落ち延びてきたとの説も有る。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
東京の硫黄島は未だ許可無くて一般人は自由に行けない、しかし今でも鹿児島の硫黄島と間違う人が多いそうだ。激戦の硫黄島を思えば思わず錯覚された学者M教授のことも懐かしく思い出す。

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