随筆・その他

兄  と  弟  (2)
西区・武岡支部
(西橋内科)   西橋 弘成

 昭和29年3月、弟が中学校を卒業した。卒業前、弟に「あんたも高校に行かんね。今からは高校ぐらい出とったが良かばい。」と私は言った。弟は「おれは勉強は好きじゃなかで高校には行きとうなか。それよか働きたか。」と答えた。「仕事はどぎゃんとが良かね。」「何でも良かばい。」「そんなら仕事を探さんならね。」と私は言った。
 私自身は探す宛はなかったが探してくれそうな年輩の方を一人知っていた。2〜3日経った夜その方の家を訪ね、弟の希望を話した。「ひとつ当てがあるから聞いてみましょう。2〜3日して亦来て下さい。」と言って下さった。3日後訪ねた。「お菓子屋さんで一人若い人が欲しいそうです。弟さんが良ければいつからでも来てよいと言って下さったよ。」と言う事だった。私は翌日弟にその事を伝えた。
 弟は「それでよかばい。」と言うと卒業日の翌日には年輩の方とそのお菓子屋さんを訪ねそのままその家へ住み込んでしまった。
 後で思えば、弟は高校へ行けばあと3年間家におらねばならぬので、それが苦痛で家を出たかったのだろうと思う。家から高校はすぐそこに見えていて、一寸と急げば3分で着く距離だった。弟が父の金を少し持ち出して一人の友人と買い喰い等してそれが見つかって叩かれ等したので家に居たくなかったのだろう。
 そこへ1年間いて「熊本市へ出たい。」と言うので、亦、その年輩の方を訪ねた。「一軒当てがあるのでそこを紹介しましょう。」と言って下さった。2年間その店にいて、次は、福岡市に住んでいる姉を頼って福岡市へ出たそうだ。
 姉が住んでいるすぐ近くにパン屋さんがあって、職人を一人求めていると貼り紙がしてあったので、姉が弟をその店へ連れて行ってお願いしたそうだ。そしたら受け入れて下さったそうだ。
 1年半経った頃、弟が店主に「大阪へ出たいのでやめさせて下さい。」と願ったそうだ。店主は「君はまだ一人ではパンを仕上げられないだろう。パンと言っても食パンだけがパンじゃない。いろんなパンがあるのだ。私のところで続かない者は、何処の店に行っても続かないよ。」と言われたそうだ。そこで弟もよく理解して5年間働いて、店主の許を得て大阪へ出た。大阪には母の友人が住んでいる。
 もう私の世話は必要なくなったなと一安心した。
 昭和36年3月、末っ子の妹が高校を卒業した。私も大学受験の勉強を始めていたので、妹と話す機会も余りなかった。4月になって妹が保育園の先生になりたいと言って、近くのお寺が経営する保育園に行きだした。私はだまって見ていた。と言うより、教員を続けながらの勉強なので一分間でも大事だった。
 8月の初めのある夕方、妹が憤然として帰って来た。玄関で母と大声で話しをしている。
 いつもない事なので、私も気になって「どうしたの。」と玄関へ行った。妹の話しでは、今日園長(婦人)と保育の事で話しをしていて意見の相違からお互い興奮して声高となり遂に園長が「勤めて一週間も経たない見習いに何が判るもんね。あんたは明日から出て来んでよか。首じゃ。」と言われたという事だ。
 私には、もめた内容が何で、どちらの言い分が正しいのかは分らないが、「首じゃ。明日から出て来んでよか。」は一寸と問題だなと思った。級友で市役所に勤めている共産党員が近くに住んでいるから彼に聞いてみようと思った。
 私は妹に言った。「だから言っただろう。保育園は大変だ、と。子供が好きだけじゃ務まらないんだよ。丁度辞める機会を与えられてよかったじゃないか。初心に戻って来春高看を受けなさい。今年は何処を受けたの?」「九州を受けたの。福岡や熊本を。」「九州は難しいんだよ。来年は大阪や京都を受けなさい。あっちは大学に進む人が多くて高看に行く人は少ないからはいり易いと思うよ。あんたは浪人だから勉強する時間は充分あるでしょう。もう一寸と頑張れば必ず受かるよ。」
 昭和37年の春が来た。妹は大阪に住む母の友人の家を宿にし大阪・京都各2校計4校受けた。私は学校へ年休届も出して鹿大を受けた。妹の発表が早くて、大阪の二校に合格した。どちらに入学しようかと妹が聞くので国立大阪病院の方へ入学しなさいとすすめた。
 私も幸い合格したので母は2人分の布団の準備で大忙しとなった。ところで困った事が一つあった。それは妹の雑費金をどうするかという問題だった。その頃大坂の店で働いていた弟が「俺が出してやるから心配するな。」と言ってくれたので助かった。私は奨学金とバイトでやっていくつもりだったので、何も心配しなかった。唯、私が大学を卒業するまで、両親が元気で居てくれる事を願った。然し願う通り行かない事もあるもので、私があと2年で大学卒業という年に、高血圧症をもっている父に軽い麻痺が生じ、仕事をする事をDr.からストップされた。両親が貰う年金は僅かでそれだけでは生活していけない位だ。
 此の時も弟が「2年間は俺がみるから。」と言ってくれて助かった。日赤病院で3年間働いて、医学部に進学した妹も折よくインターンも終って勤める様になっていたので、そちらからも援助があり私は安心した。

 兄弟が多ければこんな時に助かるものだと感じた。(了)

編集委員会註:前編「兄と弟(1)」は医報第1号
       46ページに掲載されております。




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