随筆・その他
脳外科の父 ハーヴェー・クッシング
 外科医にして著述家であり美術家であった男の物語
                   [13]

                エリザベス・H・トンプソン 著

         西区・武岡支部              
        (パールランド病院) 朝 倉 哲 彦 訳

 
第13章 失意の歳月
 1905年=明治38年12月シカゴにいるフランス人科学者アレキシス・カレルからハーヴェー・クッシング宛に手紙が来た。カレルはチャールス・A・リンドバークと一緒に人工心臓の研究をしたので、アメリカでは大衆によく知られていた。
(註1:カレル博士は小腸吻合術の研究でノーベル賞を受賞した。また組織培養の研究でも有名である)
 彼の英語は立派であったけれども、その手紙にはある単語の楽しむべき誤用があった。「貴殿の新しい研究所が何時出来上がるか知らせてもらいたい」と言う「そのときには2−3日間見学のためにボルチモアに行きたいと思っています。そして、出来ることなら貴殿のすばらしく神経質な手術をするところを見たいと思います。」
 それは初期の脳手術を記載する言葉としては適切であった。クッシングがあるとき長時間にわたる手術をしていたが、経過が思わしくなくなったので血圧はどうかと尋ねたところ驚いたことに直ぐに彼の足の回りを何者かがまさぐるではないか、新米の学生ナースが患者の血圧ではなくて彼の血圧を測ろうとしたことが分かった!
 開拓期の脳外科医たちは恐るべき緊張を強いられたので、ハーヴェー・クッシングは手術の際にはいつも競走馬のように引き締まっていた。手洗いのときにも無駄口を許さず、手術室では絶対の静粛を強制した。それぞれの患者の全責任を負い、手術は生命を脅かすものと彼との熾烈な戦いであった。エリック・オールドバーグはかつて手術室におけるクッシングの恐るべき勇気を讃える助手たちの言葉を語ったことがある。「彼は常に細心の注意を払っていたが、すべての外科医のように時に破局的なアクシデントに直面した。しかし、いつもこのような出来事から直ちに見事に立ち直った。このような戦いを身近に見ると感動するしかない。」
 たとえ手術が4時間から6時間に及んでも――緊急を要するときに彼の要求にこたえるのが遅かったり、違う器械を渡したり、そわそわしたり明らかな倦怠の兆しを見せたりした助手やナースの身の上にどんなことが起こったかは想像に難くない。こんなときにクッシングは人の感情など構って居れなかった。彼の唯一の関心事は眼前に曝されている脳だけであった。手術が終わっても、まったく疲れを見せないほどの集中力であった。時には厳しく皮肉を言いすぎたことに気づいて手術室を泣きながら出て行った学生ナースにお詫びを言うために捜し歩くこともあった。しかし彼は詫びないことが多かった。それで助手たちの中には、手術中に受けた風刺――それが当然であれ、あるいは過当であれ――から長い間、心痛む者もいた。
 クッシングの批評は手術だけに限ったことではなかった。1902年=明治35年にオスラーはクッシングに手紙を書かざるを得なかった。その中で外科の部下や同僚とうまく行っていないと聞いているが、と述べている。『また風評では学生の面前でスタッフ・メンバーの包帯の巻き方や手術のやり方を批判したと聞いている。こういうことは、ここでの君の成功にとって絶対に致命的になるものといわざるを得ない。病院のスタッフ制度というのは非常に特殊なものであり、それゆえどんな些細なことであってもお互いの忠節が必須だ。自分は心から君のことを案じているので、私のこんな悪口も気にしないで聞いてくれると思う。』これに対しクッシングから辞任の申し出があり、オスラーは陽気に(かつ効果的に)返事した:『とんでもないことだ! 欠点は誰にでもある!話しは簡単だ――[(詩篇の作者が言うように)汝の口を手綱で引き締めよ、だよ。]君のここでの前途は洋々であり、病院は君を必要としているのだ。』
 脳に関する知識はわずかな先駆者たちの絶え間ない努力と研究によって、生理学的にも病理学的にも実験研究室からは徐々に増えてきてはいたが、脳腫瘍摘出の試みは依然として失敗に終わる数が驚くべきほどであった。各種脳腫瘍のわずか5ないし10パーセントが手術可能とされ、手術のわずか5パーセントほどが成功していた。チャールス・シェーリントンとその同僚による類人猿の脳に関する研究は、すでに集められていた脳の構築の知識に多大の事実を加え、腫瘍のより明確な局在を可能にした。ホースリーとその同僚、特にチャールス・ビーヴァーとエドワード・シェフアーが同じ問題を探求し続けていた。技術的な側面ではギグリの線鋸の方が頭蓋を開けるのに冠状鋸よりも効果的であることが知られ、ドイツのW・ワグナーが脳露出の目的のために骨弁を作る新しい方法を報告した。これらの進歩が頭蓋腔内に達する際の危険を減少させたが、いまなお解決すべき多くの問題があった――いまだ解決されない出血の危険、上昇した頭蓋内圧のコントロール、浸潤した腫瘍を切除するのに脳のどの程度の深さまで入っていけるかという疑問;そして常に起こる術後の感染に脅かされた。
 その門下生の一人であるアーネスト・ザックス博士がヴィクター・ホースリー卿について話したのは、卿がチャールス・ビーヴァー博士の要請でクイーン・スクエア病院の病棟の患者を診察に行った話である。彼は患者が脳下垂体腫瘍であると診断し、次の火曜日に手術すると言った。ビーヴァーはこのような手術のいつもの結果を知っていたから抗議して、
 「だってヴィクター、あの男を手術したら死んでしまうに違いない」と言った。
 「もちろん死ぬさ」とヴィクターは答えた、「でも僕が手術をしなかったら、僕のところで勉強をしている連中がこんな手術はどうやるのか知ることができないじゃないか。」
 初期の苦難の時代に脳の手術を試みる人はすべてこのような思いを抱いていた。しかし、ヴィクター・ホースリーは果敢に手術を続け、成功する例も彼がなお続けてもいいと思うくらいになってきた。彼の努力は脳外科の創始者と呼ばれるほどに目立ったが、何も彼が初めてでもなく、この分野でたった一人でもなかった。グラスゴウのマキュウエンは一連の脳膿瘍の手術でよい成績を収めていたが、腫瘍がより困難な問題を提供していた。ホースリーが最も力を入れたのは腫瘍であったのである。フランスでの業績はフランス人外科医シッポウによって1894年=明治9年にまとめられており、ドイツではフオン・ベルクマンが脳手術についての単行本を出版した。
 世紀の変わり目のあとの、脳腫瘍に関する神経学上ならびに病理学上の知識は進んではいたが、とても今日の知識とは比べ物にはならなかった。それでも、脳腫瘍を摘出する技術上の知識よりは進んでいた。ここにクッシングが脳外科に大きく貢献する余地があったのである。ホースリーは脳外科を独立した分野として樹立したが、この分野に全時間をささげたのはクッシングが初めてであった。アメリカでは、彼のほか少数の一般外科医と神経学者が脳外科に興味を示した。目立つのはニューヨークのチャールス・A・エルスバーグ、コロンビア大学神経学研究所の神経外科医となった人で、彼の特別の関心は脊髄外科にあった。ニューヨークの神経学者たちM・アレン・スターとバーナード・ザックスとは脳腫瘍の手術的治療の固い信者であって、彼らのためにはフランク・ハートリーとアルパッド・G・ガースターとがその手術をひき受けていた。もうひとつフィラデルフィアのグループがあった(S・ウエイア・ミッチェルがなにやら神経学センターらしいものを創った)。このグループには、もちろんW・W・キーン、ミッチェル博士の息子のジョン、チャールス・K・ミルズ、と外科医チャールス・H・フレイジャーと共同で働く神経学者ウイリアム・G・スピラーとが含まれた。スピラーとフレイジャーとはクッシングもまた研究している三叉神経痛の寛解のためのガッセル(半月)神経節の手術を改良した、さらに脊髄切断術(コルドトミーcordotomy)の手術――耐え難い痛みの寛解のために脊髄の前側索路を切断する手術を始めた。
 始めからクッシングは新しい分野の前線に突進していた。彼の初期の努力は注意深い研究とたゆまぬ努力にも拘らずほとんど例外なく失敗に終わっていた。彼をこれほどまでに駆り立てるのはいかなる動機が背後にあるのだろうかと同僚たちは幾度となくいぶかしんだ。もちろん個人的な野心であった。というのは彼は決して彼のチーフ、ホルステッドがそうであったようには優先権に無関心ではなかった。彼の信念は激しく努めればいかなる目的でもやり遂げることができるというのがもうひとつの因子であった。医学自体――人類に奉仕する強い道義的義務にかてて加えて彼が厳粛に考えた義務――彼が初めて人体を解剖した瞬間から彼を魅惑することを決して止めない医学にひきつけられたのも疑いなかった。彼はその問題に興奮を見出し、かつ挑戦することに努めた。閉ざされたドアーの背後に横たわる何物かへの彼の好奇心は決して減退することはなかった。
 これはそれでいいことであった。というのは、初めの間は彼自身の関心のほかにこの道を選んだ彼を励ますものはなかったからである。経験を通じて学ぶ機会も少なく、めったにないことであった。患者が脳の手術を承認するのを躊躇したばかりでなく、それらがあるときに手術を要するという症状を認識する知識を持った医師が少なかった。この理由でクッシングがその成績を出版報告する習慣をつくった。結果が失敗の時には過ちをただし、剖検をしたときにはその結果を報告した。
(註2:クッシングは初期から剖検の重要性を主張していた、なぜなら剖検は常に重要であるけれども脳の場合は知識が初期段階にあるので特に重要である。クッシングが剖検に固執する話は古代の解剖学者たちが人体に関する知識をさらに深めるためにあらゆる手段を講じて死体を確保した話に近い類似性を持つ。ある特に困惑した症例で、剖検を拒否されたところ、そのときの彼の助手サミュエル・J・クロウエは「不吉な状況下に」(詳細は想像にまかせる)脳を確保したと報じられている。)
 このようにして医師たちが手術の適応のある神経系の病態に気づき始めた。
 クッシングの初期の努力はあまりにもしばしば致命的に終わったので、ホルステッドは「かわいいそうなクッシングの患者」と呼ぶべきか「クッシングのかわいそうな患者」と呼ぶべきかどうしたらいいか分らないと言ったという噂が立った。しかし、失敗はさらに拍車をかけるばかりであった。彼は高い熱情のもとに果断と集中力をもって仕事を続けた。彼の仕事振りは病院中随一奮励的であった。
 何よりも詳細で時間をかける神経学的かつ理学的検査をした。長い術前の検査のあと患者は手術の準備がなされた。これも手術自体と同じくらい長い時間をかけて――たくさんの器具と特殊な技術を必要とした。クッシングは手術のあと患者を絶対安静にするのを好んだ。そして時には手術室の隣の小部屋から一両日動かさなかった。一日中、できるだけ頻回に患者の様子を診に行って危機が起こらないことを確認した。
 やがてインターン生や看護婦が看て取るときには、彼は自宅から頻繁に患者の状態の報告を求めて電話した。しばしば真夜中になり明け方近くでもどんな処置をしたか詳しく訊ねた。患者がどの腕をあるいは肢を動かしたか、あるいは眼球をどの方向に動かしたかを言えなかったインターン生や看護婦は辛い思いをした。答えられないとなぜ答えられないかと問いただされ、薬物を与えた場合には、その症状を綿密に観察する熱意がなかったとなじられた。そのインターン生がその日2−3回長い手術の助手を務めていたとしても容赦しなかった――クッシングは自分を駆使するのと同じくらい彼らを駆使したのである。彼と働くすべての人に彼の仕事の質と標準を求めたがゆえに良き医学の優れた教師であった。クッシングのいくらか激しい方法の下で苦しみながらも彼の教示を負うことに感謝しない学生はいなかった。
 1901年=明治34年の12月に身体的にも性的にも発育の遅れた16歳の少女が頭痛と視力低下を訴えてホプキンスに入院した。注意深い検査のあと、クッシングは3回の試験的手術(2月21日、3月8日と3月17日)を試みた。しかし、腫瘍は発見されなかった。そして患者は5月1日症状の改善をみぬまま肺炎で死亡した。剖検で外科的見地からは到底到達できないと思われる脳底部に位置する下垂体の腺腫が見出された。同じ年にシェリントンの研究室で仲間であったウイーンの神経学者アルフレッド・フレーリッヒが同じような症例を7月に書いてきた。フレーリッヒは仲間の外科医に手術を試みさせ、これは好結果をもたらした。同じような立場にあって彼自身は失敗し、ほかの人は成功してクッシングをして痛恨の思いをさせたが、彼は直ちに下垂体腺に注意を向けた。しかし、彼の知識は遅々として進まなかった。同じような症例になかなか出会わなかったからである。
 一方では、彼の脳神経外科領域での最初の冒険であった三叉神経痛の手術の完成を目指して働いた。1903年=明治36年5月に父親に書き送っている:『今月、第17例目の神経節手術で初めての手術料を受け取ります(ただし請求書に対して支払われたらのことです)。セント・ルイスのある外科医のような度胸を持ち合わせたら――[彼の死んだ患者さんに対するガッセル神経節の手術料が3,500ドルでも高すぎることはないと遺産管理者の弁護士にクッシングから証明してくれと頼んだ]医学で蓄財ができそうです。』
 クッシングはまた、顔面神経麻痺、帯状疱疹と呼ばれるウイルス感染症ならびに舌の味蕾とガッセル神経節との関係などのような問題にも手をつけた。また、技術上の器具の工夫も研究した。出血コントロール用の頭蓋ターニキット(現在は使用されていないが当時としては相当な進歩であった)や、頭部の骨性構造を穿孔する、より効果的なバー(穴ぐり器)や鋸を考案した。
 彼は脳神経外科学の分野で地歩を固めている一方で、一般医学にも重要な貢献をした。イタリーにいた頃、リヴァ・ロッチの血圧測定装置に関心を持っていたのでパヴィアと聖マッテオ病院をわざわざ訪れた。ここで、彼はベッドサイドで用いていた空気で膨らます腕輪の模型をもらっていた。当時合衆国で使われていたどの血圧計よりも実用的であった。
 彼は帰国するや直ちに、脈拍と呼吸を記録する図表に血圧の測定記録を加えた。彼はこの研究の始めての報告を1902年=明治35年7月にウィスコンシン州医学会の席上発表した。一年後にクッシングと彼のクリーヴランド出身の友人ジョージ・クライルは彼らの血圧に関する研究をボストンで発表するようにW・T・カウンシルマンに招かれた。クッシングの論文は2−3ヵ月後に「手術室ならびにクリニックにおける動脈緊張の常規的測定法について」というタイトルで出版された。この論文は反響を呼び覚ましたので、外科診断における血圧測定の重要性を検討する委員会がハーヴァード医学校に設けられた。慎重な審議の後、空気を入れて膨らます器具よりも熟練した指先の方が正確で、血圧測定器など役に立たないとの結論に達した。ボストンの保守的な見解にもかかわらず、血圧の測定は合衆国中の内科と外科で定例的となりクライルの著書「外科における血圧(1903)」は広く読まれるようになった。この著書の中でクライルはこの国での血圧への関心の大半はハーヴェー・クッシング博士によって呼び覚まされたと謝辞を述べている。
 しかし、彼の血圧に関する研究は重要ではあったけれども彼の主題――外科学から見ればほんの副産物に過ぎなかった。1903年=明治36年の11月に彼は父親に書き送っている:『週いっぱい非常に忙しい思いをしました。手術の講義を始めたので続けています――まだドッグハウスというわけではないので有望です。また、手術はほとんど毎日行っています、幼児の後頭部髄膜瘤、眼球突出性甲状腺腫の摘出、脳腫瘍などです。』月の終わり近くになってから、クッシングの外科の経歴に非常な出来事が起こった。脊髄腫瘍の患者が病院に入院し、腫瘍の明確な局在を正しく診断したばかりでなく、その摘出に成功したのだ。『このあたりでは初めての症例で,』と父親に告げている、『このような幸運にめぐり合うのは外科医にとって生涯一度あるかないかです。』
 6ヵ月後、彼はもう一例の脊髄腫瘍を経験した。この症例報告をすると、クッシングは一通の手紙を受け取った。それは彼を非常に喜ばせたので長年机の中にしまっておいた。彼が死んだときにも同じ場所にあった。その手紙は簡潔で――『親愛なるクッシング博士:ちょうど、チャーリーと一緒に[外科学]年報6月号の貴兄の症例を読み終わったところだ。クライル博士が知らせたクリーヴランドの小児脳血腫例もまた非常に興味深い。苦労の多い仕事がよい結果を産むことは明らかだ。そしてアメリカのホースリーが育った。敬具。W・J・メイヨー。』
 脳血腫に触れているのは、クッシングが新しく手術を試みていたからである。脳脊髄液の研究をしながら髄液圧の亢進が脳の手術に危険であることについて彼は産科学教室の主任ケリー博士に死産児か生後2−3日しか生存しなかった幼児の剖検をさせてもらえないかと尋ねた。彼は多くの例に於いて、死因が出産障害から起こる頭蓋内出血であり――生存した小児における痙縮性奇形の多くの原因がこのような出血であることを見出した。この事実は知られてはいたが、医師の多くはわずか2−3日の幼児が脳の手術には耐えられないと考えていた。クッシングがこの考えが正しくないことを証明した。1905年=明治38年に、彼はアメリカ神経学連合の席上「新生児の頭蓋内出血に対する外科的治療について」と題する論文を報告した。その中で彼自身の4例の経験を要約したのである。
 1904年=明治37年の秋にクッシングは父親に書き送っている。『このところとても忙しいです。昨日は郊外に手術に行きました。
 頭部の粉砕損傷――出血を伴うフットボール損傷です。運良く凝血を吸いだすことができました。今日は小児の小脳腫瘍です。頭蓋内の操作は成功することが少ないので、成功すれば世の中が楽しくなります――失敗は大変憂鬱です。』ボルチモア・サン紙のある若い記者が茶目っ気なユーモアのセンスで、事態を不利にした。彼は遠方からはるばると手術のためにやってきた人々のことを記事にした。そして数日後に何のコメントなしにその死亡を報じた。この記者がクッシング博士の努力を克明に報じるので、ついにホプキンス病院当局の抗議がなされた。
 しかし、記事になることは、少なくとも脳外科医として公衆に知られる効果はあった。1904年=明治37年の春休みにはいくらか手術をしようと望んでボルチモアに留まったが一つも回って来なかったのでいささか悲しげに父親に告げている:『人々はわたしのことを神経学者だと考え始めたらしいです。そして、ごく普通の収入になるような手術も回ってこなくなりました。私が無念に思わず直面することに努力している嘆かわしい状況です。』
 大した収入にはならなかったけれども、彼の研究は講演の招待を受けたり、他大学のポストの招請をもたらし始めた。1902年=明治35年にはメリーランド大学の教授席があったし、1904年=明治37年にはキーン博士がジェファーソン医科大学の彼の後継者になるように招聘した。クッシングは2年の間熟慮した――彼はキーン博士には好感を持っていたし、フィラデルフィアの神経学には大いに関心があった――しかし、最終的には1906年=明治39年に断った。ちょうどエール大学のアーサー・T・ハドリー総長から医学部の外科学教授席について話し合いにニュー・ヘブンに来ないかとの手紙を受け取る2−3週前のことであった。
 フィラデルフィアの教授席を断るのを決めるのも難しかったが、エールのポストを断るのも一層難しかった。断ることにしながら彼は自分の医学教育に関する抱負――経過とともに少しずつ変わったが――を述べた:『短時間の訪問で理解できた限りにおいて、医学部には臨床の教授席を占めるものがいつでも仕事ができる病院が必要と考えられます。臨床のためにも教育のためにも「回診」をする特権のある病院なしでは、臨床教授は研究室のない化学者か物理学者のようなもので研究の機会に困窮します。またこのような病院なしの医学校は発展を期するのは困難です。』
 彼はさらに推し進めて病院の評判を拡大するには教員の印刷発行の利点を指摘した。また入学条件を引き上げてより成熟した学生を採用し――学生が4年になったら病棟に自由に出入りさせることを説いた。これらの条件がエールに存在するまではホプキンスの提供する機会を放棄するべきではないと判断した。
 ボルチモアにとどまることを選んだけれども、このように認知されることや地方学会と国内学会に発表するように招待されることに満足した;それらはみんな激しく働き準備に長い時間をかけることを意味したが、彼に神経学と神経外科学とに関心を呼び覚ます機会を与えた。彼は1902年=明治35年12月にワシントンで開かれたアメリカ生理学会の席上、味覚線維の三叉神経への関係について論述した;1903年明治36年2月にはフィラデルフィアでの神経学会において神経吻合術による顔面神経麻痺の外科的治療について報告した;クリーヴランドでの医学アカデミーでは「神経学的外科の特殊な分野について」話した;また1904年明治37年2月にはモントリオール内科外科学会において講演するように招かれた。この学会では彼のガッセル神経節手術20例について報告した。
 モントリオールに滞在中、彼は脳腫瘍の手術を頼まれた。彼は彼自身慣れ親しんだ環境以外での手術を好まなかったけれども、しぶしぶ承諾して――幸いに結果はよかった。
 彼のボストン経由の帰国はボルチモアのウォーターフロント地帯が大火によって破壊されたというニュースで急がされた。彼の家は火炎の通過を免れたが、たまたま一人でいたクッシング夫人を危険にさらした。若きウイリアムをグッドウイリー家に避難させて、大切なヴェザリュウスの書籍を取りに戻った。
 1900年=明治33年の国際医学会の期間中セーヌを見下ろす欄干のところで、ウイリアム・J・メイヨー、A・J・オックスナーとクッシング三人で合衆国に小さな外科医の学会を作ろうと話しあった考えが1903年=明治36年秋には実現することになった。この会は臨床外科学会として知られるようになり年2回開催された。『持ち回り式の学会です。すべてのプログラムを開催する町に任せて、教育方法や研究や記録の件で何がなされているか、また臨床や手術の面で新しいことがあればそれをメンバーに示すのです。……みんな若くて熱心です、立派なものにすべきであると思います。』
 いまや、妻を娶り、息子を儲け、家庭を持つに至っても、クッシングはこれらの責任を生じる前と同じくらい仕事に時間を費やして没頭した。1904年=明治37年6月11日にクリーヴランドにウイリアムを連れて彼女の母親に会いに行っているクッシング夫人に書いている:『昨日が私たちの結婚記念日だということを忘れてしまって阿呆みたいですね。毎日一緒にいるということは記念日の連続だから特にどの日かが変わって見えませんね。それにしても少なくともメッセージくらい送っておけばよかった。あなたの思慮なき少年を許してくださる?』しかしケイト・クッシングにはいつも楽に行くとは思ってはいないが、結婚する前から一緒の生活でどんなことが起こるかはわかっていたに違いない。
 7月になるとクッシングは「タマス」マックレーと英国医学会に出席するためにオスラー博士と一緒にイングランドへ向けて旅立った。学会の開かれるオックスフォード大学のオリエル・カレッジの磨り減った石段はクッシングにニュー・ヘヴンを懐かしく思い出させた。その夜英国医学連合の会長がシェルドン劇場で歓迎会を開いた。立派な年代の経ったホールは完璧にセットされ白いドレスやきらびやかな衣裳で、まるで豪華な光景であった。クッシングとマックレーは植民地代表団の中に彼らの友人ウイリアム・マッカラムの姿を見つけて驚かされた。会が終わって会員が一同出口に向かうときに二人が『賓客の車を呼ぶときのように新入生なみに声を揃えて「マッカラム様のお車」と叫んだらマッカラムは麻痺しました。』
 翌日、再びシェルドン劇場でオスラーを含む数人の偉い医師に対する学位の授与式があった。『これほど深く感銘した儀式を知りません。式は非常に古式に則ったので、まさに一時代前の人々のように見えました。』候補者はすべて濃灰色の袖の付いた真紅のガウンをまとっていて、みんなおおきな喝采を受けたが、『オスラー博士に対してはこの上なく盛んであったので博士は席に座るときに両頬が感激で紅潮し輝いていました。』
 クッシングは会議では二つのセッシヨンに出席した。その中にヴィクター・ホースリーの講演があった。最初の出会いから4年が経っていたが、ホースリーには手術手技を超えた何ものかに惹かれるようになっていた。日記に『非常に興味深い講演だった、ホースリーは素敵だ。』と記録している。その週の残りの日々、彼はオックスフォードを探索した。15のカレッジを見て回り、書店と図書館を訪ねた。ラッドクリッフの図書館で司書に向かって彼がウイリアム・ハーヴェーの『心臓の動き』の初版本(1628年=寛永5年)を見ない限り帰るわけに行かないと言ったところ、直ちに10版!まで見せてくれた。あとでメルトン図書館を訪れて『ここでは多くの本がまだ書棚に鎖付けにされていて、古い天体観測儀や地球儀それに美しく彫刻した樫の木の書棚――これらの本がこの部屋の書棚に喜んで納まっているのを好む現代の愛書家にとって色彩といいデザインといい割合といい理想的な図書館となっている。』彼の最後のオックフォードについてのコメントは:『こんなすばらしいところを見ては去り難い;この町を理解し満足するまで楽しむには生涯かけても足りないだろう。』だった。
 ミッドランド地方を急いで旅してロンドンに帰ったあと、いくつかの病院を訪問して、「キット・キャット」詩人ガース医師の足跡を追い、いくつかの書店や墓地、大英博物館を訪ねた。8月5日オスラー博士とマックレーとともに帰国の船旅についた。大変刺激的な休暇であったけれども彼とマックレーの帰りの心は重かった。と言うのはオスラー博士にオックスフォードの内科学欽定講座の教授にならないかとの申し出があったからである。
 二人はオスラーが引き受けるかどうか不安であったが、ある日クッシングがオスラーの船室の寝台から落ちた幾枚かの紙切れを拾って一枚目の文章を読んで心配は止んだ:『私がオックスフォードの教授席を引き受けるに至った経緯を簡単に述べます。』という書き出しであった。
 クッシングの夏中かかったガース医師に関する研究は12月にジョンス・ホプキンス歴史クラブに「キット・キャット」詩人として紹介したときに形をとった。その論文(すでに第12章で述べた)が刊行されたときに、歴史家ワーシントン・C・フオードから手紙が来た:『ガース医師についての貴君のエッセイ別冊ありがとう――内容も装丁も立派で、真の批評的伝記作家の味わいがありました。貴君が文学的趣味を持ちそれを活用されることに祝意を表したいと思います。というのは職業生活の苦役を紛らわすのに何よりのエッセンスとなるからです。』
 隣家ではクッシングにこの方面の著述をするように霊感を与えた人物がその影響力を遥か遠方に引き去ろうと準備をしつつあった。書籍や医学史の話をするには患者(オスラーが行ってしまう前に国中の患者が診てもらいに来た)や肖像画のために座っている間、原稿の口述、彼の名誉のために開かれる多くの宴会の合間を利用しなければならなかった。オスラー家の生活テンポはもともときびきびしていたが熱狂的になってきた。しかしオスラーはいつも快活で楽しげであった。そしてクッシング夫妻がころあいを見て塀をすり抜けて数分間来るときはいつもオスラーの書架から書籍や雑誌――オスラーの隣に住んだ幸せな日々も数えるほどしかなくなったという思い出の印でなければこんなにもすばらしい贈り物を抱えて帰った。
 1905年=明治38年の初頭数か月、クッシングは一日1−2時間オスラーのための寄付金募集の手紙を書くのに費やした。彼とヘンリー・バートン・ジェイコブスとはこのプロジェクトを推し進め、30,000ドルにのぼる確約を得た。しかしオスラーが送別の演説でアンソニー・トロロップの言葉(「固定した時代」の中から)を引用してジョークに60歳を超えた人々はすでに役目を果たしたのであるからクロロフオルムをかけるべきだといったのが、そのままアメリカの報道陣にシリアスに受けてとられてしまって新聞に書き立てられてしまい、たくさんの寄付申し込みが引っ込められた。
 オスラーのアメリカにおける最後の数ヵ月は熱狂、興奮、悲嘆が入れ混じった。彼は心ならずも引き起こした反響に深く心を痛めた、そしてニューヨークのウオルドルフ・アストリア・ホテルで開かれた大送別晩餐会で最後の挨拶をした:『私は過ちを犯しました。しかし頭脳の過ちであって、心の過ちではありませんでした。』と。
 クッシング家は5月16日にオスラー家に別れを告げた。その翌日家を取り壊しに取り壊し隊がやって来て、塀の孔も板で塞いでしまった。(つづく)


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