随筆・その他
脳外科の父 ハーヴェー・クッシング
外科医にして著述家であり美術家であった男の物語
[12]
エリザベス・H・トンプソン 著
西区・武岡支部
(パールランド病院) 朝 倉 哲 彦 訳
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第12章 「書籍は死物ではない」
ギリシャ沿岸のザンテ島で1564年=永禄7年、一人の医師が死んだ。稀有な疾患によるのか、難破船の憂き目にあったのか原因は知られていない。しかし、故郷ベルギーを遠く離れて孤独のうちに死んだのが、今までに書かれた最も偉大な書籍の著者アンドレアス・ヴェザリュウスであったことは知られている。彼は人体と骨格を今日われわれが知っている形に初めて図示したのである。
この人物とその偉大な名作の話し――早熟だった幼年期、激しかった20代、満たされぬ中年期、そして54歳での死亡――はハーヴェー・クッシングを生涯魅惑し続けた。クッシングが初めてヴェザリュウスを知ったのはおそらくはオスラーに教えられたのであったかも知れない、あるいはジョンス・ホプキンス歴史クラブの会であったかも知れない。いずれにしても1901年=明治34年の春パドウアに於いて、ヴェザリュウスが始めて公開解剖を行った古代の解剖学教室を探し出した。この解剖の場面は1534年=天文3年にスイスのバーゼルで出版した「人体の働きについて」De humani corporis fabricaの扉に描かれている。ヴェザリュウスは描画と原稿をロバの背に積んでヴェニスから山越えをしてバーゼルにやってきたのであった。
彼をして次の40年の間、ヨーロッパ大陸中の書店、図書館、博物館に足を運ばせたヴェザリュウスとは一体どんな人物だったのだろうか?[激怒の人]と呼ぶものもいる;疑いもなく激しい性格ではあったが、意志強固で勇気もあった。しかし、このような性質は1500年以上も実地医学を支配してきた伝統を打ち破るべき医師には必要であった。教授が教壇に座って教科書を読み上げている間、無知な床屋外科医が学生のために解剖をしていたのをヴェザリュウスはじれったく思って、自分自身で解剖をした。そしてまもなく本に書いてあることと事実が一致しないことに気づいた。さらに数世紀にもわたって教えられてきた解剖学はイヌやブタの解剖に基づいていて人体に基づいていない事実による不一致であることを発見した。
そこで28歳の年に有名な「解剖学」を出版した。この本の人体の絵はテイテイアン画塾の美術家たちの助力を得て、おそらくはテイテイアン自身の筆もあって、まるで生きているかのように見えた。骨格の乾いた骨さえも生きているようだった。前世代の二次元的な、平坦な絵はなくなり――構造上、機能上の古い過ちも消えて書き換えられ、同時代の人々に戦慄と衝撃を与えて「近代解剖学の父」の名声を幾世紀にもわたって獲得したのである。彼の人体図はいまでも美術学校で使用され、彼の医学知識の進歩への貢献は今でも医学生や医学史家の賞賛を絶やしていない。彼の革命的な仕事は批判の嵐に会い、ヴェザリュスは怒りのあまり原稿をすべて焼き捨て、教職を辞して宮廷医になって残りの人生を送ることにした。このことによってだけでも彼が若い時代に活躍して脚光を浴びたことが分かる。クッシング以前にヴェザリュウスの偉大な強さ、想像力ならびに強情さにひきつけられて研究した人は多いが、クッシングのように長く営々と追究した人はいない。
それがどうやって始まったかは想像のほかないが、クッシングが1904年=明治37年5月31日に父親に書いた手紙で知ることができる:『オスラー博士が僕にヴェザリュウスに関するエッセイを書くように勧めました。有名な図版などが付いている[人体の働きについて]のすばらしい写本を何時でも貸してくれます。僕はヴェザリュウスの肖像画の写真や版画の類をできるだけたくさん集めたいと望んでいます。もしカタログにそれらがあったら、また彼の本を売っているのに気づかれたら知らせてください。』
しかし、写真や版画では飽き足らなくなってきた。夏の間パリにいたウイリアム・マッカラムから手紙が来た:『イタリーでは特別なものはなかった。ただ君のためヴェザリュウスの一冊が手に入った。オスラー博士が持っているものと同じだが少し保存が悪い――1543年=天文12年のバーゼル版だ。』オスラーがヨーロッパから「人体の働きについて」の写本を4冊持って帰ってきてからますます火が燃え盛った。
(註1:彼は個人的にあるいは医学校の図書館に寄贈した)
オスラーに勧められてクッシングが書いた論文は「ヴェザリュウスの著書」と言う表題が与えられ、1903年12月3日、メリーランド大学の「書籍と雑誌クラブ」で発表した。この会の翌日、ケリー博士が「人体の働きについて」の第2版のきれいな写本をクッシング家の玄関口に置いて行った。
これより少し後に、カーク博士から自分も「人体の働きについて」の写本を持っているとの知らせがあって、クッシングは直ちに訊ねている;『オスラーは二つ紹介していますが、お父さんが装丁しようとしているのはどのヴェザリュウスですか?今年お金ができたら彼の著書のすべての写本を手に入れ自分の持っている[人体の働きについて]と揃える心算です。』2年後に彼の望みの一部が満たされる機会がやってきた:『最近、てんかんの手術をしてあげた人のいい医者から本を買うようにと200ドルの小切手が送って来ました!』と父親に告げている。『これで僕のヴェザリュウス・コレクションを完備する予定です。』ほかの贈り物もあった。聖書にいわく、「求めよ、さらば与えられん」との言葉ほど書籍の収集家にこそ当てはまる:『ブルックリンのピルチャー博士がやって来て歴史クラブでムンヂヌスに関する講演をしました――彼は晩餐会その他われわれと一緒に2-3日滞在しましたが、ヴェザリュウスの「人体の働きについて」の1568年=永禄11年版を送ってくれました。僕のヴェザリュウス蒐集を満たし、いまや相当なものになりました。』
(註2:ムンヂヌス、ボロニアの解剖学者、ヴェザリュウスが生まれる2世紀前に一般的な解剖学の教科書を書いている)
こうして現存している最大のヴェザリュウスのコレクションが始められた。1906年=明治39年には200ドルで蒐集を完成しようと気軽に考えていたが、死ぬ日まで買い続けることになった。
(註3:彼の死後4年にも一冊が加えられた――[ヴェザリュウスの伝記―著作目録]クッシング自身が一部書き上げ、彼の友人で遺言管理者のジョン・F・フルトンが完成しクッシングの希望通り、「人体の働きについて」の出版400年記念として出版された。ニューヨークのヘンリー・シュウマン社により上梓された。)
多くを買い占めたけれども、ヴェザリュウスだけがクッシングの唯一の関心であった。そしてオスラーはクッシングの蒐集に対して彼の熱意をかき回し、医学の歴史を作った人々の知識を与え、書籍カタログを見せたりして多くを与えたけれども、それだけで蔵書家になったわけではない。曽祖父デヴィド・クッシングが相当のコレクターであったことを思い出すだろう。それを祖父のイラスタスがニュー・イングランドを離れるときに運んで来た。父親のカーク博士は大家族を養いながらも、自分の分では本を買った。最初に本の蒐集を薦めたのはこの父親であった。クッシング家の医師が集めた書籍を少しずつ譲っていったのである。1899年=明治32年の2月初めにクッシングが父親に書いている:『本は今朝ほど無事に到着しました。嬉しいことです。僕の蔵書も成長しました。250冊くらいになります。』一年後今度はカーク博士が書いている:『少し暇になったら何時か話した古い本を送ろうと思っている。お母さんの寝室の小さな本棚にある国際外科学5巻はどうか?もし欲しいならあげるよ。そのほかに助けになるか慰めになるものは何でも言いなさい。』
書物は人の慰めになった。クッシングがいかに慰められたかはミルトンの言葉に雄弁に表現されている。ミルトンは書いている「書物は死物ではない。生命がある。書物には人生のポテンシーが含まれている。著者の魂の子孫であるかのごとく生き生きとしている;書物はあたかもヴィオラのごとくそれを生み出した生き生きとした知性の最も純粋な効果と精髄を蓄えている。」クッシングは一年間の外遊中、ミルトンの歩いた街路を歩きハンター博物館で展示されたジョンとウイリアム兄弟のライフワークを見て、「お人よしのチャーリー・ベル」が九人の私生児がいるよりも重荷だった傾きかけた家での診療の址を見て――これらの思い出多い場所をさまよって医学の歴史を手繰り寄せながら、決して忘れ去ることはなかった。
ベルンでは古い時計台の周りを一時間毎に機械仕掛けの熊が回って偉大な生理学者ハーレルに時間の経過を告げたごとく、クッシングにも告げた。パドウアでは、アクアペンデンテのフアブリクスが松明の明かりのもとでウイリアム・ハーヴェーに静脈弁を供覧した円形劇場に佇んだ。ハーヴェーは後に英国に帰り、人体をいかに血液が循環するか――キリスト生誕数千年前からの人類の想像力を困惑させていた謎を発見した。
(註4:1907年=明治40年にクッシングはハーヴェーが彼の発見を世界に知らしめた1628年=寛永5年の著書――Exercitatio anatomica de motu cordis et sanguinis in animallibus――を買う機会があった。しかし、そのときには現金200ドルの持ち合わせがなくて買えなかった。この本は46冊しか写本がないので、次の機会にはなんと価格3,000ドルになっていた)
幾世紀にもわたり、真理を求めて苦闘し続けたこれらの人々の人生がクッシングが彼らの著書や彼らの友人、先駆者、後継者などの情報を集めるにつれて眼前に現れてくるのであった。前途に横たわる困難な時代を前にして尽きない喜びとリラックスの源となるゲームであった。
ささやかに始められた蒐集も次第に費用の嵩むものになってきた(1902年=明治35年12月31日から1907年=明治40年1月1日までの図書代金は854.07ドルであった)。父親の存命中はクリーヴランドの図書室からの貴重本や
興味を示した贈り物を受け取り続けていた。二人の間で交わした手紙にはほとんどと言っていいくらい相互の本に関する関心の引き合い――つぎのような引き合いがあった:
1900年=明治33年2月28日ハーヴェーよりヘンリー・カークへ
仕事のプレッシャーにもかかわらず送っていただいた立派な古い本を拾い読みする暇はありました。チャールズ・ベルがもちろん、もっとも値打ちがありますが、ほかのものと関連付けると二重に関心があります。デヴィド・クッシングの本のひとつに関税評価官の印鑑があるのを見つけました…古い[ランセット]誌は立派です。この巻は当時の「内密」外科へのもっとも活動的な撲滅運動です。
(註5:ベルは19世紀の英国の指導的な解剖学者) 1902年=明治35年10月12日ハーヴェーよりヘンリー・カークへ
チャールズ・ベルは誠にありがとうございました。僕はいまや薄いのが3巻になりました。もっとほかのも欲しいです。どんなことがあってもこんな本を人に贈り物にすることはありません。ケイトと僕は私たちの書棚が自慢です。結婚祝いにトレシー夫人からウオルポールの部厚い20巻――書簡、エッセイその他をいただきました。私たちの「18世紀末」の蒐集は――ピオッチ夫人――送っていただいたジョンソン――「スペクテーター(18世紀のロンドンの日刊雑誌)などで強力になりつつあります。
1903年=明治36年3月12日ヘンリー・カークよりハーヴェーへ
先週、われわれのロウフアント・クラブの非居住者メンバーのフィラデルフィアのハロルド・プライスの蔵書の一部が売りに出た。アメリカに関する本が多かった。自分は運良くジョン・モーガン博士の「医学校設立に関する論説」1765年=明和2年フィラデルフィア版を入手出来た。
「エディンバラの医科学教授ウイット博士へ著者より」と言う署名がある。…それからウイリアム・ブラッドフォード(トーマス・カッドワルダー博士――ウイリアム・ブラッドフォード2世製作)の押し印がしてある。1893年=明治26年ニュー・ヨークでのグロラー・クラブのウイリアム・ブラッドフォードの印刷した書籍や他の中部諸州の印刷業者の書籍の展示ではモーガン博士の論説は一冊もなかった。…人生の実務で毎日忙しい人にこんな思い出話をしても興味があるかどうかわからない。そして君の親父さんはうんとかび臭くなったか少なくとも書くタネが尽きたかと思われそうだ。
(註6:モーガン博士の論説はアメリカで最初の医学校(ペンシルベニア大学に1765年=明和2年)の創設に至らしめた。カーク博士はこの学校の卒業生であった)
1903年=明治36年6月30日ハーヴェーよりヘンリー・カークへ
ケイトと僕はオスラー先生が毎週くれる数冊の本のカタログを見るのを楽しみにしています。現在目を通しているものの中に面白いのがいくつかありました――[たとえば]ウオーンクリッフ卿著の「レデイー・メアリー・ウオートレイー・モンタギュー」で、ユタ州ソート・レイク市シェパード書店刊です。大きな(古い)書籍の商業地としては変わっていると思いませんか?値段は比較的安い本です。
ぜひおいでください。もし来られることができたら「キット・キャット・クラブ」の本を持ってきてください。キット・キャット・クラブとそのメンバーに関する問い合わせに悩まされていますから。レデイー・メアリー・ウオートレイ・モンタギューはクラブ随一のもっとも若い[花形美人]でした…彼女が1717年=享保2年にコンスタンチノープルから天然痘に対する種痘を持ち帰ったことを覚えていますか?オスラー博士がそのことを教科書に書いています。
1904年=明治37年1月にクッシングが父親に書いている:『昨日、ずいぶん前にオックスフォードのブラックウエルに注文していた分割払いの本を受け取って、だいぶ興味が沸きました。それらの本がヘンリー・アクランド卿の蔵書であったもので、蔵書票がついていました。その一つは[ジョン・ハンターとその弟子たち]と言うグロスのエッセーの贈呈本でして、グロス博士の覚書が貼り付けてありました。S・グロス博士とその[やさしくて美しい奥さん]――オスラー博士がグロスラー夫人と呼んだ――英国を訪問する予定であると書いてあるのです。何年も経ってからこの覚書がオスラー夫人のごく近くに舞い戻ってくるなんて不思議なことです。』
(註7:オスラー夫人はフラデルフイアの名門の子息サミュエル・W・グロスと結婚していた。彼の死後3年経って1889年=明治22年に、W・オスラーと結婚したのである)
1773年=安永2年にロンドンで発行された[静力学論考]を贈られて、クッシングの興味はさらに増した。著者はテムズ河にあるテッヂントンの永久副牧師のステファン・ヘールズである。すばらしい性格の人であり、ケンブリッジのアイザック・ニュートンと同時代の人で、彼は牧師としての任務を熱心に果たすばかりでなくて、当時の科学の進歩に大きく貢献した。教区の囲い地で雌馬を使って実験的に血圧を測定した最初の人であり、換気装置を最初に作って刑務所、奴隷船や病院で使うことを主張した人でもある。彼の著書は広く人に読まれた。クッシングの手に入った本にはパトリック・ヘンリーの蔵書票が貼ってあった。パトリックが死んだときにはヴァージニア州のスタントン河のほとりにある彼の農園レッド・ヒルの図書室にあった。クッシングの患者であったヘンリーの子孫の亭主からもらったのであった。
オスラーの例によっても、図書を蒐集していると歴史的な随筆を書くのはたやすいことであった。たとえばキット・キャット・クラブに興味を持った結果はつぎのような始まりの文章となった:「アン女王の治世にクリストフアーまたの短い名をキットと言う[パイ作りで不朽の名を成した]パイ職人がいた。彼はテンプル・バーの近くで[キャット・アンド・フィドル(ヴァイオリン)]と言う名の居酒屋をやっていた。そこには当時の知名士たちがこぞって集まった…[その中で]この随筆の主人公は人気者で度量の広い人付き合いのいいガースであった。」
サミュエル・ガースは医者であり詩人であったが、彼の「薬局」と言う韻を踏んだ歴史物では調剤を薬剤師よりも医者にやらせるべきだと言って、当時の人気をさらった。友人のジョン・ドライデンが不名誉な埋葬をされるのから救って、立派な葬儀のあとウエストミンスター墓地の詩人墓地の一角に埋葬させたのはガースであった。クッシングはこの葬儀の案内状を何年もかかって捜し求めた:
貴殿は1700年=元禄13年5月13日月曜日ジョン・ドライデン氏の葬儀に参加されることを乞う。柩は午後4時丁度にウオーウイック通りの医師協会からウエストミンスター寺院へ5時までに移送されることが決まっている。本状を持参されたし。
彼は結局探し出した複製で我慢しなければならなかった。現物は彼が探し始める少し前にロンドンのオークションで一アメリカの蒐集家によって買われてしまっていた。
しかし、このような「失敗」よりも「掘り出し物」の方が多くて蒐集は終わることなく募る一方であった。真の蔵書蒐集家の辞書には飽満と言う言葉はない。捜し求めるときのスリル、勝ち得たときの勝利感、所有の喜びは尽きることはない。クッシングにとって若い日の書籍を蒐集するという興奮は彼の生涯続き、職業の歴史を形成したが、経験を積んだ収集家となってからさえ科学のほかの分野までも手を伸ばした。彼の図書室に入る者は誰でも、彼の熱心さに引きこまれずにはいられなかった。「書籍は富がわれわれに微笑んでくれるときに、われわれを喜ばせてくれる;書籍は不運の嵐がわれわれに吹きすさぶとき、常にわれわれを慰めてくれる。書籍は人間の契約に効力を与え、書籍の助力なしに重大な判断を下すことはできない。」これらの言葉を彼は1903年=明治37年に、14世紀にダラムの教座座長にあったリチャード・ド・バリーのフイロビブロン(愛書論)の中に見つけた。バリーは多彩な書籍蒐集家の司教であったが、「人は書籍を通じて世界の果てまでを知り尽くし、時間の限界まで究めることができる。そして現実の事物も非現実の事物も同様に永遠の鏡に映し出すことを観照する」から人々を「書籍の驚くべき力」の下に引きずりこむのを楽しみにしていた。(つづく)
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