新春随筆

ウ イ リ ア ム ・ ウ イ リ ス 生 誕 170 年
− 顕 彰 し た い そ の 功 績 −

西区・武岡支部 松下 敏夫

 年数の区切りとしては少々収まりが悪いが、今年(2007)は、ウイリアム・ウイリス(William Willis, 1837-1894)の生誕170年という節目の年に当る。私も古稀をとうに過ぎたので、泉重千代さんのように百歳以上まで元気で長生きして、ウイリス生誕200年の節目の年に、若い人たちと共に彼を顕彰する事業に参加することが出来るかどうかは、いささか自信がない。


ウイリアム・ウイリスの生涯
 ウイリアム・ウイリスは、1837年5月1日、アイルランド・ファマーナ州エニスキレンの郊外で生まれた。
 1862年(文久2年)5月に弱冠25歳の若さで駐日英国公使館補助官兼医官として来日し、明治維新前後の激動の時代に約15年間わが国に滞在した。
 この間、生麦事件や薩英戦争に直接遭遇し、戊辰戦争では双方の負傷者の治療に当るなど活躍して、明治政府にも高く評価され、1869年、明治政府が設立した東京医学校兼大病院(東京大学の前身)の院長に任命された。しかし、明治政府は岩佐純・相良知安らの提言によりドイツ医学を医学教育に採用することを決めた。そこで政府はウイリスの処遇に困ったが、西郷隆盛の世話で彼を薩摩藩が招くことになった。ウイリスは高給を以って鹿児島の西洋医院(翌年鹿児島医学校兼病院と改称)の院長として迎えられ、1870年から治療と医学教育を開始した。時に32歳であった。
 1875年には就任4年で一年間の休暇をとり一時帰英、翌年再び来日して来鹿した。しかし、1877年2月の西南戦争勃発により外国人引き上げの達示があり、鹿児島医学校兼病院は閉鎖、ウイリスは妻子同伴で鹿児島を離れた。8月には妻子を東京に残して単身で帰英、その後、1885年1月にはタイ国バンコク駐在の英国総領事館付医官として着任したが翌年病気のため帰英した。そして、1894年2月、閉塞性黄疸により享年57歳で死去した。
 なお、ウイリスの生涯や功績に関しては、「遠い崖」(萩原延壽;朝日新聞社)を始め、鮫島近二博士の多数の労作記述、「英医ウイリアム・ウイリス略伝」(佐藤八郎;渕上印刷)、「ある英人医師の幕末維新」(ヒュー・コータッツイ;中央公論社)、「幕末維新を駆け抜けた英国人医師―蘇るウイリアム・ウイリス文書−」(大山瑞代訳;創泉堂出版)などに詳しく記載されているので、ここでは割愛したい。


ウイリスの鹿児島での活動と功績
 鹿児島では、浄光明寺跡(現南洲墓地)の医学校と現在の鹿児島駅に近い小川町滑川の赤レンガの病院(赤倉病院)で、英国式西洋医学を導入して診療・医学教育に当り,鹿児島に近代西洋医学の基礎を築いた。
 ウイリスの鹿児島での滞在は6年足らずであったが、この間、治療のみならず妊産婦検診、温泉療法、健康・体力づくり、食糧・栄養問題や、上下水道完備の必要性の提言など予防医学・公衆衛生面でも大きく貢献した。
 他方、医学教育では、石神良策、三田村一、高木兼寛(海軍軍医総監・慈恵会医科大学の創設者)、上村泉三、中山晋平(初代鹿児島県医師会長)ら300余名の有能な門下生を育てた。
 ウイリスが鹿児島で導入した近代西洋医学の潮流は、その門下生らの力により、鹿児島県のみならず、広くわが国の地域医療や医学教育などの面で、今日まで、連綿と継承・発展されてきているといえよう。


ウイリスらの診療と集成館事業の関係は?
 話は変わるが、島津斉彬がわが国における近代産業の草分けとして興した近代的様式を備えた工場群の「集成館」事業は、今年150年という節目の年を迎える。この集成館事業の歴史的意義に関しては、現在、「世界遺産候補」の九州産業遺産群に集成館(反射炉・溶鉱炉跡)、集成館機械工場(現尚古集成館)、鹿児島紡績所技師館(現異人館)が取り上げられていることからも窺うことが出来よう。
 ところで、ウイリスが診療を行っていた赤倉病院と集成館事業が進められていた磯地区とは地理的に極めて近接している。したがって、集成館事業で発生していたと思われる労働災害や労働者の病気に対して、ウイリスらが診療に関与した可能性が推察される。しかし、私が既述の資料などを調べた範囲内では、両者の接点は今のところ明らかではない。
 ちなみに、尚古集成館の松尾千歳副館長に伺ったところ、「残念ながら、尚古集成館には関係資料がございません。また、私が見ました関係資料でも見いだせていません。といいますのも、維新後、集成館は島津家の手を離れ、日本陸海軍が管理していました。このため関係資料は当館にはございません。また赤倉病院・ウイリスも、直接島津家と関係をもっていませんでしたので、こちらもございません。」との返答であった。
 今後、両者の間に何らかの接点が見出せないか、さらに関係資料や情報などを収集してみたいと考えている。


没後100年追悼記念事業の提案と実施
 1993年の秋、ふとしたことから私は翌年がウイリス没後100年の節目の年に当ることに気付いた。そこで、鹿児島大学医学部教授会(福田健夫医学部長)に、これを期にウイリスの顕彰事業を行うことを提案した。初め異論は少なくなかったが、幸い提案は認められ、遅れ馳せながら実行委員会が設置され、私は事務局長役を務めることになった。
 記念事業としては、ウイリスの命日に「献花・追悼式」を行うこと、「記念式典・講演会」を開催すること、ウイリスに関する資料を収集して記念出版を行うことなどを決めた。
先ず、「献花・追悼式」を、ウイリスの死亡記事が掲載されたLancetの記載などに従い、命日に当ると考えた1994年2月14日、当時医学部附属病院の前庭にあった「英国大医ウイリアム・ウイリス氏頌徳祈念碑」の前で行った(写真)(後述のように、墓参で確認した正確な命日は2月15日であったが−)。


     追悼式祭壇


    追悼式で献花する参会者


 続いて、4月9日、鹿児島大学医学部教授会(佐藤榮一医学部長)が中心になり、鹿児島県医師会(鮫島耕一郎会長)や鹿児島日英協会(尾辻義人会長)などのご協力を得て、鹿児島県医師会館において、「英医ウイリアム・ウイリス没後100年記念式典・講演会」が開催された。会にはウイリスの孫に当る河内まり代さんも参加され(写真)、会場は立錐の余地もない人々で埋め尽くされた。


式典で挨拶する河内まり代さん


 記念式典に続く講演会では、流暢な日本語で「近代日本における西洋医学の偉大な貢献者−英医ウイリアム・ウイリス−」(元駐日英国大使;サー・ヒュー・コータッツイ)の講演が行われ(写真)、続く「ウイリアム・ウイリスの門下生たち」(森重孝;元鹿児島市立病院副院長)の講演と相俟って、ウイリスの偉大な功績が披露され、参会者に大きな感銘を与えた。また、夕方には「英国医ウイリアム・ウイリス没後100年記念顕彰懇親会」が盛大に開催され、一同、ウイリスの遺徳を偲びつつ歓談した。


講演するサー・ヒュー・コータッツイ氏


        記念式典の筆者


 なお、同年9月には、鹿児島大学医学部教授会と鹿児島日英協会などの有志による墓参団が訪英してウイリスの足跡を辿り、9月9日には墓前祭を開催した(写真)(詳しくは、後述の鹿児島大学医学雑誌の「特集号」を参照されたい)。


       墓前に集う墓参団


 一方、出版事業としては、村田長芳教授が中心になり関連資料の収集が行われ、鹿児島大学医学雑誌に「ウイリアム・ウイリス没後100年追悼特集号」(Vol.47, Supplement 1, 1995)が編纂・発行された。


おわりに
 1968年4月、佐藤八郎先生らにより「鹿児島西洋医学開講百年記念式典」が盛大に開催され、関連してウイリスを顕彰する記念レリーフが作成された。
 その一つは鹿児島大学医学部同窓会館ホールの入口壁面にある。そこには、「ウイリアム・ウイリス(1837−1894)英国の医師 明治二年(1869)薩摩藩に招かれ医学校および赤倉病院を創設した 明治十年まで多くの医学生を育て また診療につくした これが鹿児島大学医学部の発祥である 西洋医学開講百年に当り医聖を偲ぶ(1968.4.21)」とある。
 また、鹿児島県医師会館の一階ロビー壁面には、文面の末尾を少し変えて「ウイリアム・ウイリス(1837−1894)英国の医師 明治二年(1869)薩摩藩に招かれ医学校および赤倉病院を創設した 明治十年まで多くの医学生を育て また診療につくした これがわが国における近代医学の黎明である(1968.4.21)」とある。
 ウイリス生誕170年に当り、彼の偉大な功績を顕彰する何らかの企画が、関係者のご尽力によって、何とか具体化することを期待したいものである。


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